「坂谷ぃ~」
次の日の朝。岩倉さんが、登校中の少年をみつけて、声をかけてきた。
「あっ、岩倉さん、おはよう」
「ちょっと、昨日のあのメッセージ何? キモイんですけど? やめてもらえる?」
「えっ」
「『今まで自分のことばかりで、周りのことが見えてなかった気がする』とか、自分語りがうっとおしいし、『だから君のことを、もっとよく知りたくなった』とか、ストーカー宣言? アンタ、そんな人だったの? ほんと、キモイ」
「あ、いや……」
「とにかく、そんなもの送ってこないで。とくに夜はだめ。夜に送りつけるなんて、こっちの迷惑も考えてよ。送られても返信できないし」
「ああ……ごめん」
「ちゃんとわかった? もうしないでね。で、許してあげるかわりに、数学のノート見せて。コピーするし」
「えっ、なんで?」
「アンタのところ、こっちのクラスより進行早いでしょ」
「そうだけど……」
「だからよ。よかったね。可愛い彼女の役に立てて」
彼女は、ずいっ、と手を差し出してきた。ここでノートを貸せ、ということらしい。
「いや、でも、数学は1限目からだし、困るよ」
「そんなの、別の紙に書いておいて、あとでノートに写せばいいじゃない。私だって、アンタのノートを書き写すんだから。同じ苦労するんだから、平等でしょ。それとも、私のために、何の苦労もしたくないわけ?」
少年は、次の言葉に詰まってしまった。
彼女のためになら、多少の苦労はするべきかもしれない。
いいじゃないか、彼女のためになるのなら……。
少年の義務感が、少年にそうささやいてくる。
少年の義務感が、彼に数学のノートを差し出させた。
彼女はそれを、まるで自分のものであるかのように、カバンに収めた。
そして、「じゃね、私、急いでるから」と言って、ひとりでスタスタと行ってしまった。
首をすくめていると、「坂谷」と声をかけられた。
「おい、なんだありゃ。カツアゲか?」
クラスメイトの男子だった。
男子は、彼女の背中を不審そうに眺めながら、少年の横に並んで、歩き出した。
「いやぁ、彼女がノート、借りたいってさ」
「あれ、ひとから物を借りる態度じゃねえだろ。なんのノートだよ」
「数学」
「はぁっ? バカかお前は。数学1限だろ? ノートどうすんだよお前」
「まぁ……今日に関しては、別のノートにとるよ」
「なんていうか、お前、利口なのか、バカなのか、よくわかんねえんだよな。俺ら地元残留組とは違って、いい大学目指してるんだろ? それだけ勉強ができるのに、なんかフラフラしてるよな」
「そう?」
「それより、あの女だよ。あの女とお前、どういう関係なんだよ」
「いや、まあ……」
「どうせ、難癖をつけられて、からまれたんだろう? お前はよく面倒ごとを押し付けられているからな。この間も、やらなくていい見舞いなんぞを引き受けやがって。まぁ見舞いはともかく、ノートはさすがに一線越えてるだろ。断りづらいなら、俺から言ってやろうか?」
「いや、そこまでは、してもらわなくても……」
「遠慮してんじゃねえよ。お前ひとりじゃ、さっきみたいになるだけだろ」
「…………」
「あの女は、どうしようもないやつだよ。知ってるか? あの女の噂」
「噂?」
「そう、実は、」
「まって」
「あ?」
「聞きたくない」
「なんで?」
なぜか、と問われると、恋人だから、としか答えようがない。
自分の恋人の悪口や噂話は、聞きたくない。聞いてもしょうがない。
それが、自分の恋人に対する、礼儀だと思うから。
でも、それとは別に、このクラスメイトは、自分を気遣ってくれている。それぐらいはわかった。
自分の恋人と、このクラスメイトに対する礼節を通すため、黙ったまま、あいまいな笑顔を見せた。
これで話は終わりにしてくれ、
というつもりだった。
この笑顔をみたクラスメイトは、最初は笑わずにいた。
でも、やがては諦めたように、笑った。
このクラスメイトも、他人が築いた壁を、無理して壊そうとはしなかった。
壁があれば、それ以上は侵入しない。他人との距離感を保つ。それが良い人間関係のあり方だと知っている。
少年は、壁を作った。クラスメイトは、その壁を壊さない。
その後、学校に着くまでの間、二人の間に流れたのは、ただ、お互いの壁の上辺だけをなぞる時間だけだった。
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