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スピッツ「青春生き残りゲーム」は、スーパーマリオのことだった説。



こんにちは。八百屋テクテクです。

今回は、スピッツ「青春生き残りゲーム」について解釈していこうと思います。

この詞は、ブログタイトルにもありますとおり、ファミコンのゲームことを示唆したものなんじゃないかなと。もっと正確にいえば、大事な青春のひとときをファミコンに捧げることで、棒に振る、ということを表現しているのかなと。

ところで、みなさんにとって、青春ってどんなものでしたか? ポカリスエットのCMみたいに、キラキラしたものだったでしょうか? キラキラした太陽の下で、高校生の男女数名で音楽に合わせて額に汗して踊ったりしましたか? 「汗は君のために流れる。」とか、「汗を楽しめ!! FAST SUPPLY,KEEP LONG!」みたな、そういう青春を送っていたでしょうか?

たいていの人は、そうではなかったように思うのです。自分が何者なのかもわからず、どこに所属せず、誰にも期待されず、ただキラキラしているクラスの男女数名を「なんだ、あいつら」と白い眼で眺めながら、鬱々とした日々を過ごしていたのではないのでしょうか。

実は青春って、本来そういうものなんですよね。鬱々としたものを抱えて、暗い地べたを這いずり回るような、そういう暗いものなのです。2020年代の現在は、なんか青春ってキラキラしたいいものだ、みたいな広告がバンバン出ているので、なんかそういうモノだと勘違いしがちなんですけど、この「青春生き残りゲーム」が出た1990年代なんかは、まだ青春に対する評価がリアルだったように思います。村上春樹が訳した「ライ麦畑でつかまえて」なんかは、青春の概念をもっともよく表していたとされていましたし、悩める青少年に対しては、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」を読むよう推奨されていました。どちらも青年が主人公の、暗い暗~い話です。青春の爽やかさなんて、これっぽっちもありません。

この「青春生き残りゲーム」もまた、青春の鬱々とした部分を表現している、と仮定すると、よりクッキリと、言いたいことが見えてくるんじゃないかなと思うのです。そしてゲームとは、スーパーマリオブラザーズのことを表しているのかなと。青春の鬱々とした気持ちを抱えて、ひとりで、なんの役にも立たないファミコンに夢中になることで、ダラダラと無目的に過ごすことを表現した詞なんじゃないかなと。いや、こういう鬱々とした部分こそが、逆にマサムネさんにとっての青春の叫びという、ロック魂なんじゃないかなと。キラキラした青春というものに対する、熱い反骨精神が読み取れる部分なんじゃないかなと。

順番に見ていきましょう。



本当の淋しがり屋は 金棒で壊しまくってる

まちがって悪魔と踊る よろこんで命もけずる

この詞が作られた時代以前に流行したファミコンのゲームといえば、「スーパーマリオシリーズ」が思い浮かびます。

マリオといえば、上部にあるブロックを叩いて壊したり、亀の甲羅を投げて横ブロックを削ったりできます。クリアするだけなら、進行の妨げになっているブロックのみを壊して進んじゃえばいいんですけと、あちこちに秘密の通路とかが隠れていて、そこにはコインとかが沢山あったりするので、見逃さないようにチマチマとすべてのブロックを壊していったりしちゃうんですよね。そういう面白さがあります。若き日のマサムネさんは、リーダーの田村さんの家に入り浸ってファミコンばっかりしていた、と回想していますが、ファミコンをやっていたのなら、マリオシリーズは絶対に通った道でしょう。そして、何もやることがなくて持て余していた青春のエネルギーを、ひたすらマリオのブロック破壊に費やしていた、なんて光景が思い浮かびます。自分の境遇が恵まれているという実感があったら、ブロック破壊なんてムダなことに時間を使わないでしょう。それこそ、夢に向かって勉強したり、バイトしたり、気になる女の子を誘ってデートしたりと、キラキラするに違いありません。行き詰っているからこそ、無駄なファミコンに夢中になってしまうのです。ブロック破壊をしてしまうのです。

「まちがって悪魔と踊る よろこんで命もけずる」は、難易度の高いステージにチャレンジしている場面なのかなと。操作がおぼつかなくて敵キャラと踊ってしまうような操作になったり、あるいは敵にぶつかって命を落としたり。



荒れ荒れのハートに染み込む 他人の幸せの粒が

明日には変わるはずさ 気のせいでいいよ 今は

ここは、同年代のキラキラした幸せな青春を送っている人たちを眺めて、嫉妬して、ハートが荒れ荒れになっている場面なのかなと。

「今に見ておれ…いずれは曲をヒットさせて、ブレイクしてやるんだからな……」と思いながら、ファミコンをしています。

他人から「ファミコンばっかりしてるお前が? 無理無理、無理だって」と笑われたでしょう。マサムネさんはしかしながら、それを否定せず、「気のせいでいいよ」と表面上負けを認めています。「ふん……気のせいということにしてくれればいいよ……」と、いじけつつ、行き場のない内なる炎を燃やしている部分なのかなと。



生き残れ 星降る夜に 約束通り必ず会おうよ

花吹雪 身体に浴びて 笑えるくらい 瞳輝かせて

サビは、もっぱらゲームに没頭しているシーンなのかなと。この鬱々とした状況を生き残るために。

「星降る夜に 約束通り必ず会おうよ」「花吹雪 身体に浴びて」は、クッパにさらわれたピーチ姫を救うシーンじゃないかなと。マリオはピノキオに、ピーチ姫を必ず救うと約束していました。その約束通り、強敵を蹴散らしてクッパ城まで行き、ピーチ姫を救い出したのです。

ゲームをクリアして、エンディングで「笑えるくらい 瞳輝かせて」と、自分で自分にゲームでワクワクしようと提案しています。

青春の鬱々としたものって、その場では答えがでないことがほとんどです。問題が堂々巡りしているばかりで、いっこうに先に進んでいかず、閉塞感に押しつぶされそうになります。そういう閉塞感漂う現実とは対照的なシーンが、「星降る夜」だったり、「花吹雪」を身体に浴びているシーンです。今直面している青春とは対照的なシーンですね。ゲームの中にしか存在していないシーンであることがわかります。

鬱々とした青春を生き残る手段のひとつが、ゲームなのです。「青春」を「生き残り」たいなら、現実逃避のためにいったん「ゲーム」しよう。そんな意味がタイトルに込められているのかもしれません。



勝ち目の無いバカなゲームと 適当に風に流してた

青春の意味など知らぬ ネズミのように ただ

「適当に風に流してた」のは、マサムネさんです。とするなら、「勝ち目の無いバカなゲーム」が何を指しているのかというと、自分たちスピッツがブレイクすることだと言えます。これは、マサムネさんが本気で取り組んでいたことですが、一方で、他人に対しては、「いやぁ、ブレイクなんて、勝ち目の無いバカなゲームだよね」と愚か者を装っていたことが伺えます。

さきほどの詞にもありましたが、マサムネさんに音楽を諦めさせようとしていた人が少なからずいたのでしょう。嫌がらせではなく、親切心から、そう言っていた人もいたでしょう。ファミコンばっかりやっている人が「音楽で食べていきたいんだ」と言っていたとしたら、そりゃあ「勝ち目の無いバカなゲームだ」と言いたくもなるでしょう。

そう言ってくる人に対して、マサムネさんは「適当に風に流してた」そうです。「アハハ、確かに確かに!」と、表面ではそう取り繕っていたでしょう。

悩みのない、青春の意味なんて知らない、ただ自堕落に目の前の快楽を追いかけるネズミのように。

それにしても、「ゲーム」のことをゲームとあえて直接表現せず、現実のことを「ゲーム」と言い表しているのは、すごい表現技法ですね。主題の外側にある現実のことをゲームと表現することで、主題の内側の部分はゲームのことなんだな、と誘導解釈させる。そんなテクニックがみてとれます。



生き残れ 見知らぬ街で ふくらむ気持ち 丸々たくして

紙ヒコーキ 恋する季節 百億世代続いた糸を切る

青春の重圧の中で、何もせず、ただ「生き残る」ことだけを目指しています。何かを求めれば求めるほど、叶わず、絶望してしまうのが青春なのです。なので、とりあえず「生き残る」ことだけを考えるのが大事なのです。欲望が大きい程、長い屈辱に耐えなければいけません。ましてや、音楽で大ブレイクという、途方もなく大きな夢を抱えているマサムネさんにとっては、忍耐力こそが必要だったでしょう。

ゲームの中では、見知らぬ街で、マリオが生き生きと動いています。このマリオにマサムネさんの神経をまるまる託してしまっています。ギターを練習しなきゃ、という重圧をすべて、マリオに託しているのです。

ただ無駄とも思える時間をこうして楽しく過ごすことこそが、現実逃避をするうえで必要なことだったのです。

「紙ヒコーキ」とは、たぶんマサムネさんの家族からの手紙だと思います。「ちゃんとまともな会社に就職しなさい」と叱る内容の。それを紙ヒコーキにして飛ばしているシーンなのだと思います。やーだよー、みたいな。紙ヒコーキという点に、重圧をできるだけ正面に受け止めず、回避しつづけている、マサムネさんの忍耐術が伺えます。そんなもの全部マジメに受け止めていたのでは、気持ちが持たないですからね。青春の悩みとかは、とにかく深刻になる前に、とりあえずゲームで発散するのが、生き残るコツなのです。

家族からの、深刻な心配も、どこふく風です。家族からしてみれば、長男であるマサムネさんが草野家の中心になるはずでした。そのためにマサムネさんには真面目に就職して、結婚して、子供をもうけてもらいたかったはずです。でもマサムネさんは、「百億世代続いた糸を切る」と、簡単に言ってのけています。青春真っただ中の年齢、つまり恋愛適齢期のマサムネさんが、恋愛もろくにしないで取り組んでいるのは、ゲームなのです。家族にしてみれば、なんてこった、と頭を抱えたに違いありません。

でも、マサムネさんがゲームに取り組んでいたのは、生き残るためでした。生き残って、今のスピッツがあるのです。このマサムネさんの生存戦略は、大成功だったといえるでしょう。百億世代続いた草野家の糸を叩き切ってまで、スピッツに賭けたのです。それが大ブレイクという形で、報われたのでした。




という感じで解釈してみましたが、いかがでしたでしょうか。

私はすでにオジサンと呼ばれる年齢になってしまいましたが、今の若い子は青春について、どういう認識でいるのでしょう? メディアや広告の宣伝どおり、キラキラしたものとして認識されているのでしょうか? 楽しいものなのでしょうか?

昔の青春は、上記のとおり暗くて、じめじめしたものでした。とはいえ、それがダメってわけではないのです。青春の葛藤は、その後の成長に絶対に必要なものでもありました。悩んで悩んで、ひとは大人になるのです。でもこの悩みが、時には自分ひとりでは支えきれないぐらいの大きさになることもあります。そんな時、どうしたらいいのでしょう?

そんな青春の扱いに悩んだ時、マサムネさんのような生き方もある、と思い出してみてはどうでしょう? もちろんマサムネさんは天才なので、まるまるマネしてもうまくいかないでしょうけれども、でも、目指すべき目標があるのなら、叶えたい夢があるのなら、みんなと同じような生き方にこだわらなくてもいい、という点においては、参考になるのではないのでしょうか。

私もマサムネさんを見習って、八百屋王になるために、ファミコンをしたいと思います。




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