こんにちは。八百屋テクテクです。
今回は、スピッツ「跳べ」について解釈していこうと思います。
この曲は、アルバム「ひみつスタジオ」の2曲目に収録されている曲です。このアルバムの特徴としては、1曲目であります「i-O(修理のうた)」にて説明しておりますとおり、いままで作った曲に対するアンサーソング集になっているんじゃないかなと、個人的には思っているんです。
「i-O(修理のうた)」は、「夢じゃない」の後日談的な語りで進行しています。
そして「跳べ」は、「インディゴ地平線」をなぞりつつ、その世界観を否定しているような、そんな曲になっている気がするのです。
どういうことなのか、順番に見ていきましょう。
まず、「インディゴ地平線」の世界観ですが、この曲も以前解釈したことがあるんですけど、「セーラームーン」の世界なんじゃないかなと。
セーラームーンの劇中において、世界の破滅をもたらす美しすぎる死神、セーラーサターンが現れました。主人公たちの奮闘むなしく、セーラーサターンは世界を滅ぼすために復活を遂げ、手にした武器サイレンスグレイブを振り下ろしました。その瞬間、世界は無に帰したのです。
こういう、世界のすべてが滅ぶ美しさ……死の美しさを表現したのが、「インディゴ地平線」の世界観なんじゃないかなと。
このことを前提にしたとき、「跳べ」は、見事に、「インディゴ地平線」の世界観とは真逆の内容になっていると気が付きます。
闇に目が慣れていろいろと 姿形があらわになり
不気味が徐々に可愛さへと
化け猫でもいいよ 君ならば
インディゴ地平線で描かれていたのは、滅んでいく世界の、圧倒的な美しさでした。世界が徐々に暗くなっていき、なにもかもが終わりに近づいていくときの、どうしようもない美しさ。死は何もよりも美しい。美しく死ぬことに比べたら、生きることはどうしようもなく醜いことだ、と、当時のマサムネさんは考えていたわけです。
でも、今のマサムネさんは違います。醜く生きててもいいじゃないか、と考えを改めることができたのだと思います。死ぬことの美しさは否定しないけれど、恥にまみれて生き延びることにもまた、美しさを見出せるようになった、ということだと思います。人間としての階段を、一段上ったという感じです。
闇に目が慣れて、ということは、死の世界をこれでもか、と考え続けたことがわかります。インディゴ地平線から長い時を経て、いろんな生も、いろんな死も見聞きした結果、生や死の美しさ、醜さといった部分に、解釈の幅が増えました。インディゴ地平線の当時ではよく見えなかった姿形が、今はあらわになっている、というわけですね。
「君」は、インディゴ地平線では死にきれなかった人だと思います。マサムネさんはインディゴ地平線にて「壊れてみよう」と、一緒に滅んで死ぬことを提案しました。このとき、マサムネさんの道ずれになれたのなら、この世の何よりも美しかったでしょう。でも、死にきれなかった。美しく死ぬよりも、醜くても生きることを選んだからです。
この「君」は、マサムネさんの死の美しさを知っている一方で、自分の生が醜いことを自覚しています。美しい鳥ではなく、不気味な化け猫なわけです。
でも、そんな不気味さが、徐々に可愛さへと変化していった、とマサムネさんは言っています。これは、「君」が変化したのではなく、「君」を見つめるマサムネさんの視点が変化したんだろうな、と思います。
ここは地獄ではないんだよ
優しい人になりたいよね
己の物語をこれから始めよう
暗示で刷り込まれてた 谷の向こう側へ
跳べ
「地獄」のフレーズは、インディゴ地平線にもでてきます。「歪みを消された 病んだ地獄の街」というワードです。歪みを消された、の部分に、整然とした美しさを感じます。美しいがゆえに、美しくないものを許さない、そんな病的なものを感じます。
でも「跳べ」においては、「ここは地獄ではないんだよ」と言っています。美しくても、美しくなくても、いいんだよ、と許してくれる場所なわけです。そしてマサムネさん自身もまた「優しい人になりたいよね」そして、「己の物語をこれから始めよう」と言っています。この意味は、地獄ではない世界の住民になりたい、という意味だと思います。この世界に住んで、美しいものも、美しくないものも、一緒に愛していきたい、という意思表示だと思います。
「暗示で刷り込まれてた 谷の向こう側」というのは、なんでしょう?
この部分は、インディゴ地平線のサビとリンクさせると、なんとなく思い浮かんできそうです。インディゴ地平線では、手を広げたのは、死ぬためでした。逆風に向かってあえて手を広げるのは、強風を一気に体に受ける、いわば自殺行為なのです。それを重々承知のうえで「壊れてみよう」と提案していたわけですね。
でも、「インディゴ地平線」だと思っていたものが、実は谷だったとしたら、どうでしょう?
病んだ地獄の街がずーっと続いているものだと思っていたけれど、実は、地平線のように見えていた部分が実は谷であり、その向こう側は、地獄ではない、善悪美醜が同居する優しい世界だったとしたら。
そっちの世界にいきたいのなら、もう跳ぶしかありませんね。
おなじ、逆風に向かい手を広げる行為だったとしても、死ぬために広げるのではなく、生きるために広げ、跳ぶのです。
落ちにくい絵の具で汚されたり 弄りの罠ですりむいたり
心だけどこに逃げようかと
探しているのなら すぐに来て
美しい世界にて、自分の居場所を見つけようと必死になって、汚れたり傷ついたりしている人。そんな人たちに対して、善悪美醜が同居する優しい世界へと導こうとしています。
谷を跳ぼう、と誘っています。
吹雪もいつかは終わるんだよ
イビツなままを愛したいよね
己の物語をこれから始めよう
メーター上空っぽだけどまだ 残りの力で
跳べ
インディゴ地平線では、「凍りつきそうでも」と、自分も相手も凍えている様子が描かれています。死の一歩手前の、極限状態にさらされていたわけです。
そうまでしないと、美しい地平線が拝めないと、その時は思っていたんですよね。
でも今は「イビツなままを愛したいよね」と言っています。吹雪もいつかは終わり、美しい雪原も消え去り、荒野ばかりの景色になっているかもしれません。美しい景色を求める写真家なら、がっかりして立ち去ってしまうでしょう。でも、イビツな荒野も愛することができるようになれば、拝める景色も広がるというものです。
泣きながら捨てた宝物
また手に入れる方法が七通りも
「なんだろう、この七通りって……?」と思いました。
わからないですけど、「地獄」にからんだことだとするなら、「大罪」のことかなと。つまり、「貪食」「淫蕩」「強欲」「悲嘆」「憤怒」「怠惰」「虚栄」です。
美しい人になるためには、自分の欲望を薄くしていくことだと、仏教やキリスト教は言っています。つまり、これら七つの大罪を捨てることで、美しい人になれるというわけです。
でも、これらは人間に備わっている、もっとも大事な部分です。悪いもののように列挙されていますが、例えば美味しいものを求めることは、農林水産業や飲食業にとって、殖産興業に繋がります。エロい気持ちがなれけば人口は増えません。お金持ちになりたいという思いがなければ、経世済民、つまり経済によって人々を幸せにすることができません。悲嘆がなければ人格的な成長が見込めず、憤怒がなければ法律を作ったり守ったりすることができません。怠惰でなければ、社会を効率的なものにしていこうという発想が生まれないでしょう。虚栄心がなければ、ファッションをはじめとした、文化が生まれなかったでしょう。
もし、方法として挙げた七通りのモノが大罪だとするなら、宝物とは、人間性のことでしょう。人間性だとしたら、この詩のテーマにもぴったりと当てはまると思います。
人間性を捨てて美しくなったのが「インディゴ地平線」のテーマなら、人間性を取り戻し善悪美醜を受け入れるのが「跳べ」のテーマなのだと思います。
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