こんにちは。八百屋テクテクです。
今回は、スピッツ「賛歌」について解釈していこうと思います。
この曲はアルバム「ひみつスタジオ」に収録されている曲です。ひみつスタジオの曲といえば、どの曲も、いままで発表した曲へのアンサーソングとなっているような印象です。
昔はこう思っていた→でも今はこう思っているよ、的な感じで、時代の流れとともに考え方が変化していく様子が描かれているようです。
この「賛歌」もまた、何かのアンサーソングになっています。特定の曲に対して、というわけではなく、今までのマサムネさんの表してきた曲のスタンスに対して、というふうな印象です。
どういうことかと申しますと、今までのマサムネさんの曲といえば、「おれはみんなと同じ、特別な能力なんてない普通人間だから、たいそれたことは言えないけれど、でもこの一瞬だけは、君のことを思って全力で歌うよ」的な曲が多かったのです。
「賛歌」では、「永遠」という言葉が使われていますが、同じく「永遠」という言葉を使っている曲として、「さらさら」が挙げられます。「さらさら」では「永遠なんてない」と言い切っていますが、この曲はまさに「永遠なんてないけれど、眠りにつくまでの短い間だけでも、そばにいてほしい」という、切ない願いが込められている曲です。
「おれの能力では、ほんとに短い間だけしか、君を満たすことができない。でもその間だけは、全力を尽くすからさ」という感じです。「永遠に幸せにするよ」だなんて、軽々しくいわない、言えないところに、マサムネさんの謙虚さ、誠実さ、繊細さが表れています。
この「さらさら」のような「一瞬でいいから、君のことを幸せにしたい」的なスタンスで、これまでの曲が作られてきたというふうに、私は見ています。
しかしながら。
「賛歌」は、このスタンスを破った曲だと感じます。
「どんなに辛いことがあっても、君をみつめているよ」という、強い意志を感じます。「おれは大した人間じゃないから…」という謙虚さの殻を破り、「何があっても、永遠に君のそばにいるよ」という、使命感を感じさせる曲になっています。
これは、ブログタイトルにもしましたが、結婚を決意した曲なんじゃないかなと。
歌詞を順に追って、詳しくみていきましょう。
枯れてしまいそうな根の先に 柔らかい水を染み込ませて
「生きよう」と真顔で囁いて
ライフが少しずつ戻るまで 無駄な でも愛すべき昔の話
聞かせてくれた日から
この物語の冒頭は、マサムネさんは自分のことを樹に例えています。そしてその樹は、今にも枯れてしまいそうになっています。
これは、肉体的な死を意味しているのかもしれませんし、精神的なものかもしれません。枯れるといえば、才能が枯渇する、なんて言ったりしますが、単調で心を揺さぶられない日々を送っていれば、いずれそうなることもありうるでしょう。歴史小説家の司馬遼太郎氏は、「私が平穏な日々を送っていたとしたら、小説を書かなかっただろう」と言っています。司馬遼太郎にとっての小説の原動力は、戦争経験であったのです。マサムネさんの原動力は、もしかすると、特定の誰かなのかもしれません。
そんな君がマサムネさんの根の部分を、優しくケアしてあげています。そして、「生きよう」と真顔で言っています。マサムネさんのことを、めっちゃ心配してくれているシーンです。
マサムネさんの描く曲って、「君」にあたる人物の感情がダイレクトに描かれることって、あまり見当たらないんですよね。あくまでもマサムネさん側から見た情景や、心の動きに焦点を当てています。でも、「賛歌」のこのシーンだけは、君の、マサムネさんを心配する気持ちが、モロに前面に出ています。この一事だけでも、今までとは違うな、ってことがわかります。
日常を生きる上では「生きよう」と真顔で言うシーンは皆無でしょう。あるとすれば、死のうとしている人と話をしようとした時ぐらいです。いや、それもあまり面識のない人が相手だったら「生きなよ」という言い方になると思います。「私はアンタの人生にあまり関係ないけど、とりあえず生きたほうがいいんじゃない」といったニュアンスになります。でも、ここでは「生きよう」と言ってくれています。これは「一緒に生きよう」という意味になります。人生にガッツリ絡んでこようとする意志を、彼女から感じます。
それから、マサムネさんの調子が戻るまでの間、彼女に介抱されている様子が描かれています。「無駄だけど、愛すべき話」を聞かせ続けてくれたそうです。彼女から、めっちゃ愛情を感じるシーンですね。
マサムネさんは、彼女の優しい心の部分に触れて、感動したのです。ここまでやってもらったからには、今までのスタンス通りの「おれは大した人間じゃないから…」だなんて、言葉は通用しないでしょう。それは謙虚ではなく、臆病ということになります。そう、自分に言い聞かせているシーンなのだと思います。
鳥のように 虫のように 風を受けて 時を紡ぐ
君のそばに いられるなら
強い雨も 砂嵐も 汚れながら 進んでいきたい
瞬く間の 悦びさえ
今は言える 永遠だと
マサムネさんは冒頭、自分を樹に例えましたが、しっかり元気になった樹がそこに悠々と立っている姿を彷彿とさせる詩です。鳥や虫の住処になるよう、風に揺られながら見守っています。強い雨も砂嵐にも耐えて、ずーっと立っている樹。
この樹はいいます。「君のそばにいられるなら、どんなに大変でも頑張るよ。」と。
樹は、これから何百年、何千年と生きるかもしれません。君が人間だとしたら、一緒にいられる時間なんて、「瞬く間の悦び」になるでしょう。だけど、そんな短い時間でも得られるなら、「永遠に君のことを愛しているよ」と。また、そう思うだけでなく、ちゃんと「言える」と口に出して、宣言できる、と言っています。
勇気が誰かに利用されたり 無垢な言葉で落ち込んだり
弱い魂と刷り込まれ
だけどやがて変わり行くこと 新しい 歌で洗い流す
すべて迷いは消えたから
ここからは、樹ではなく、あくまでもひとりの人間としての話になっています。「樹としてのたとえ話だと思った? ちゃんと俺自身の話だよ。聞いてね」と、以前に彼女がやってくれたみたいに、真顔で「生きよう」と言っているようなシーンです。
勇気を利用されたり、落ち込んだりするのは、人間だけです。
どんなにひどい目にあったとしても「新しい歌で洗い流す」ことで解決できるとふんだようです。これまでは、「いや、ひどい目にあったら、さすがに落ち込むよ~、歌とかでは解決できないよ~」と、弱い魂の部分がある自分を信じられないでいました。
でも、「すべて迷いが消えた」といっています。これからは、どんなに辛いことがあっても、解決すると。おれの歌には、そういう力があるからと。
そう、彼女の前で宣言しています。そういう、強い覚悟を感じる部分になっています。
雪の中で 熱の中で 失わずに 目を開いている
君のそばに いられるなら
白い暗闇 黒いシャングリラ 傷ついても 持ちこたえたら
二人だけの 小さい笑いすら
今は言える 永遠だと
ラララ…
今は言える 永遠だと
今は言える 永遠だと
厳しい寒い日も、暑い日も、君から瞳をそらさないでいる。この部分からも、永遠を誓っていることが感じられます。
「白い暗闇」と「黒いシャングリラ」は、どちらも現実世界の話なのかなと。現実は平坦ではなく、いいこともあれば、悪いこともあります。まさに白い暗闇という、矛盾した中を歩いていくようです。シャングリラは理想郷という意味ですが、これが黒い、という状態です。込められている意味はめっちゃ深いと思いますが、浅い言葉でざっくり言い換えてしまえば、現実は平坦なものではない、という意味になるでしょう。結婚式で神父さんが言う、「病める時も、健やかなるときも」という感じですね。
そんな平坦ではない現実世界の中で、おれと君の二人が、向かい合って笑っている。これがあるだけで、おれは君に永遠を誓える、と。
という感じで解釈してみましたが、いかがでしょう?
「賛歌」とは、信仰対象を賛美する歌のことですが、これは結婚式でよく用いられる歌です。まさに、結婚をイメージさせます。
余談ではありますが、結婚についてのイメージが多様化しているように思います。古くからの考え方としては、家同士の縁組という意味になります。お家柄がいいのよ、みたいな。「結婚に縛られている」だなんて言い方は、まさにこの考え方が前提としてあります。一方で、最近では「単なる書類上の制度」だと考えている人が増えてきてるようです。なので、あまり深く考えずに結婚して、やなことがあったらすぐ離婚します。それが良いかどうかは別として、結婚に対する考え方が軽くなっているようです。
「賛歌」から感じ取れる結婚の考え方は、この両者のどちらにも属していません。家柄がどうのとか、控除がどうのとか、そういう俗っぽい話では当然ないですし、やなことがあったらすぐ離婚しよ、という程度の覚悟で、この曲を作ったわけではありません。「強い雨も 砂嵐も 汚れながら 進んでいきたい」の部分に、それが感じられます。とても重い覚悟を表現しているのです。私はそう思うのです。
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