こんにちは。八百屋テクテクです。
今回は、スピッツ「田舎の生活」について、解釈していこうと思います。
といっても、解釈自体は、そんなに難しいものではないと思います。「君」との生活を夢見ていた「僕」だったけど、それが叶わず、都会へと帰っていく、という話です。
憧れだからこそかもしれませんが、田舎の描写がとにかく美しいんですよね。私自身、福井という半端な田舎に長年住んでいるのでわかるのですが、田舎って、とにかく住みにくいの一言です。電車やバスの頻度は少ないし、買い物できる場所はコンビニかスーパーしかなく、選択の余地がない。職がない。店をやろうにも人が来ない。虫や蚊など害虫が多い。根も葉もない噂をリアルでばらまき村八分を作ろうとする、害虫みたいなオジサン、オバサンも多い。水道やガスなど未整備なところがある。学校や病院が遠い。なにより、その不便さを嫌っている人が大多数であり、不満を漏らし合うことで共通認識であることを確認しあっている、ということです。つまり、「いやぁでも、田舎いいじゃん。自然豊かだし」とでも言おうものなら「何いってるの! こんな不便な場所がいいだなんて、頭おかしいんじゃないの?」と、やいのやいの言われちゃいます。
もっとも最近は、キャンプブームなどで、田舎特有の自然の豊富さが注目されるようになってきており、そういった声もあまり聞かなくなりましたが、やはり今でも、田舎に住んでいる人の心の根底には、田舎に住んでいることに対する不満と、都会に対する憧れが、同居していると言えるでしょう。
そんな、田舎者の気質を知っている私から見ると、この「田舎の生活」の歌詞は「……この詞は、現実離れしている。田舎の人には受け入れられないだろうな……」と、この曲を知ったばかりの中学、高校時代は思っていました。
でも、なんの因果か、野菜を扱う職に就いて、自然と田舎の美しさに触れていくうちに、「この詞の美しさが本物かもしれない。本物として、受け入れたい」と思うようになりました。
もっとも、「田舎の生活はいいよね」と田舎の人に言うと、「そんなわけねーだろ」と反発が来ることがいまだに多いので、大っぴらに言うことができませんが、自分の心の中に映る田舎の景色を、美しいものにすることが、できるようになったと思っています。
長々と田舎の愚痴を話してしまいましたが、「田舎の生活」の詞においては、単なる田舎に対する美しさだけではなく、田舎に対するネガティブさが一切でてこない点にも、注目してもらいたいと思いまして、あえて愚痴っぽく言っちゃいました。
ネガティブさが一切出てこないとは、どういうことか。それは、綺麗な思い出の中か、もしくは想像の中の風景であるということです。
なめらかに澄んだ沢の水を ためらうこともなく流し込み
懐かしく香る午後の風を ぬれた首すじに受けて笑う
野うさぎの走り抜ける様も 笹百合光る花の姿も
夜空にまたたく星の群れも あたり前に僕の目の中に
美しい自然の風景ですね。「澄んだ沢の水」は、どこに流し込んでいるのでしょう。たぶん喉の奥です。つまり、ごくごく飲んでいるというわけです。えっ、生水飲んじゃダメでしょ、と思いますよね。山奥の水でも、雑菌に汚染されている場合があるので、いくら清流でも飲めません。でも、普通ならためらう飲水でも、この沢の水なら飲める、と彼女に教えられたのでしょう。ためらうことなく、喉に流し込んでいます。
風の様子も描かれています。首筋に汗をかいていたためか、首筋が濡れています。そこに風が吹きつけたため、冷たく感じたのでしょう。その風は、いろんな草花の間をくぐりぬけてきた風なので、においがあります。薫風というやつですね。薫風といえば5月頃の、新緑のシーズンを表す言葉ですが、ちょうど笹百合が花をつけるシーズンと重なります。
空気が澄んで、夜空には星が群れになっているのが見えます。
それらの光景が、当たり前のように、目の前に広がっているというわけです。田舎は、すごいですね。
必ず届くと信じていた幻
言葉にまみれたネガの街は続く
さよなら さよなら 窓の外の君に さよなら言わなきゃ
「言葉にまみれた街」というのは、都会のことです。都会は、看板とか多いですよね。こっちが現実です。
「幻」と表現されているのは、都会ではない方、つまり、田舎です。田舎の光景は、「僕」にとっては幻だったわけです。
「僕」の目には、田舎に比べると、都会の「ネガ」さが気になってしょうがないようです。
ネガとは、昔の写真に使われていたネガフィルムのことです。ネガフィルムを見たことはありますか? 景色や色調が現実のものとは反転しており、モノクロみたいな見え方になります。田舎の色彩豊かな景色からすると、都会はそう見える、ということです。いや、田舎の生活を共に送ろうとしていた彼女にサヨナラをしなければいけなくなったから、ネガに見えている、ということなのかもしれません。
一番鶏の歌で目覚めて 彼方の山を見てあくびして
頂きの白に思いはせる すべり落ちてく心のしずく
根野菜の泥を洗う君と 縁側に遊ぶ僕らの子供と
うつらうつら柔らかな日差し 終わることのない輪廻の上
自然の美しい風景を楽しむことを、「花鳥風月」と言いますが、花、鳥、風が出てきます。月を星と言い換えるなら、すべての表現がでてきたことになります。こういう言葉の配置をきっちりするあたり、さすが詩人マサムネさんだなと思います。
ここも、終始自然の美しさを、ひたすら表しているだけになっています。「輪廻」という言葉が出てくるので、生と死の話に繋がるのかな、と想像している方もいるかもしれませんが、これは、たぶん春夏秋冬の季節において、植物や動物たちが生と死を繰り返している、田舎ならではの光景を目にすることができた、ということでしょう。
そして、その輪廻の中に入るのは、「僕」たち人間もそうです。君と、君との子供が、ひとつの家で生活を始めている光景が、ここに描かれています。ひとは、ほかの誰かと出会って、恋をして、子供を産んで、死んでいく。人間も、この雄大な自然のひとつなんだ、と認識している場面になっています。
あの日のたわごと 銀の箱につめて
さよなら さよなら ネガの街は続く
さよなら さよなら いつの日にか君とまた会えたらいいな
自然の雄大さに浸っていたと思ったら、ここで急に、現実に引き戻されます。都会の、ネガの街にて、君にさよならを言う場面です。「僕」は、自然の輪廻からはずれて、ひとり都会で生きることを決意したようです。
「銀の箱」なんですけど、これはいったい、なんでしょう?
銀の箱といえば、思い当たるフシがひとつあります。シェークスピアの作品に「ヴェニスの商人」という話があるんですけど、これは知っていますか? この話に出てくる貧乏な男性が富豪の女性に求婚するんですけど、富豪の女性の親の遺言により、三つの箱を用意し、正解の箱を選んだ男性の求婚を受け入れる、ということになっていました。彼のほかに、2人の男性が彼女に求婚していたのですが、彼らは用意された箱のうち、金の箱と、銀の箱を手にして、求婚に失敗しました。正解だったのは、一番粗末な、鉛の箱だったんです。
問題の、銀の箱ですが、そこには「この箱を手にしたものは、自分と相応なものを手にすることができるだろう」と書かれていました。そしてウキウキしながら箱をあけると、「ここから立ち去れ」という紙が入っていたのです。
求婚相手を拒絶するために使われた銀の箱ですが、もし、この詞の銀の箱もまた、同じような役割なのだとしたら、「僕」は「君」にフラれたほうだったのでしょう。それでも、彼女と一緒にいたことの証としての箱の中に、田舎での思い出を詰めて、閉じ込めた、といった感じなのではないのでしょうか。
とまあ、長くはなってしまいましたが、正直、あまり解釈に迷うような部分って、そんなになかったと思います。感じたまま、素直に詞を作ったという感じですね。
とはいえ、この作文力には、圧巻です。こんなに美しい詞を書けるなんて、天才としか言いようがないですね。
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