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スピッツ「海を見に行こう」は、視覚障碍の人に海を案内する話だった説。



こんにちは。八百屋テクテクです。

今回は、スピッツ「海を見に行こう」について解釈していこうと思います。

八百屋さん的な結論としては、この曲はブログタイトルにありますとおり、視覚障碍の曲だと思います。もっといえば、「目が見えなくなった人と海に行って、彼女に海を感じさせる話」だと思います。

さらにいえば、これはマサムネさんの実体験を表しているんじゃないかなと。マサムネさんの身近な人に、視覚障碍の方がいらっしゃったんじゃないかなと。

どういうことか。歌詞を順番に眺めていきましょう。




明日 海を見に行こう

眠らないで二人で行こう

朝一番のバスで行こう

久しぶりに海へ行こう

ここまでは、普通に海に行く話と捉えても、全然大丈夫ですよね。私たちスピッツファンが海に行く計画を立てる際は、ウッキウキでこの曲を歌うと思います。興奮して、眠らないで行くことだってあるでしょう。朝一番のバスで行って、最終バスで帰ってくるぐらいの、無茶な計画を立てることもあるでしょう。楽しいですね。

一方で、このお相手が視覚障碍の方だとしたら、どうでしょう。朝一番のバスで行くのは、混雑を避けるためです。通勤通学ラッシュに重なったら、しんどい思いをしちゃいますし。また車いすをバスに持ち込んでいるとしたら、場所をとってしまいます。そういうのを避けるために、空いている時間にバスに乗ろうとしたのではないのでしょうか。そしてそのために、マサムネさんが寝ないで準備したんじゃないかなと。長旅となれば、着替えとか持ち物とかいろいろ準備が必要です。夜遅くに彼女の家に到着して、旅行の準備をして、着替えとか保険証とかオヤツとかをカバンに詰めて、彼女を暖かい格好に着替えるのを手伝い、家の戸締りをして、朝一番の海行きのバスが発車するのに合わせて、家を出た。こういう背景があったんじゃないかなと。



ふりそそぐ陽光

雨上がりの匂い想う

追い越した自転車の方

照れながら若葉の色

海につく頃には、陽光が降り注いでいました。あたりには、雨上がりの匂いが立ち込めています。

どうですかこの表現。陽光の暖かさや、雨上がりの匂いは、視覚障碍でも感じ取ることができるものです。かつ、たとえ目が見えている人でも、意識しなければ、感じることのできないものだと思います。こういう僅かなものを感じ取って、お互いに「陽光だよ、暖かいね」「雨上がりの匂いがしているね」と声を掛け合っていた場面なんじゃないかなと。

また、その次の「追い越した自転車の方 照れながら若葉の色」というのもまた、ドラマを感じます。彼女の車いすをおして海に続く道を通った際、人がひとり通れるぐらいの、細い道があったのだと思います。朝方なので、近所の中学生が自転車で登校している場面に出くわしてしまいました。その自転車群が通り過ぎるまで待とうと思っていたところ、ひとりの中学生が自転車を降りて、「お先にどうぞ」と言ってくれました。マサムネさんは感動して、「ありがとう!」と道を譲ってもらったことに感謝して、車いすをおし、自転車を追い越した。中学生は照れて恥ずかしそうに、ニッコリした。という場面が思い浮かんできます。この中学生のことを、若葉と表現したんじゃないかなと。若葉の中学生だけど、照れて頬の色が赤くなった、みたいなことを言いたかったんじゃないかなと。



おかしくて 吹き出しそうな時のいたずらに

導かれ 僕らは行く 翼も無いのに

「おかしくて 吹き出しそうな時のいたずら」は、ロビンソンで大ブレークし、一躍時の人となったマサムネさん自身のことだと思います。大ブレークすることを夢見てはいましたけれども、実際に自分がそうなるとは想像にもしていなかったのだと思います。宝くじに当たったみたいな感じでしょうか。「時のいたずらですわ」と、さも自分の実力ではない、みたいに感じているようです。

でも、そういう時の流れに翻弄されて、マサムネさんと彼女は、今に至っているのだと思います。こうして車いす生活になってしまうまでの彼女と、大ブレークしたマサムネさんとの間には、さまざまなドラマがあったことを感じさせます。



何もない? 何かある? この道の彼方に

フツウだけど 確かに僕の目の前に広がる

ここです。そもそも、なんでこの詞が視覚障碍の曲だと私が思ったかという話ですが、ここに原因があります。

すぐ上の詞では、「導かれ 僕らは行く 翼も無いのに」と、たしかに二人のことを語ってします。二人で海に来たはずで、二人のことを描いているはずなのに、ここでは「確かにの目の前に広がる」と、僕しか描いていません。これはいったい、どういうことでしょう?

ここでは、確かに二人で海を見ているはずなのです。でも、海が広がっているのを目で見ることができるのは、僕ひとりだけだから、こういう表現になっているのだと思います。ということは、彼女の目には、海が映っていないことになります。

では、海が見えないのに、それでもなぜ、海を見に行こうとしたのでしょう?

それは、マサムネさんが彼女に、海を見せたかったからです。たとえ目に映らなくても、波の音、風の匂い、降りそそぐ柔らかな陽光……他の感覚全てを使って、海を感じてもらおうとしたのだと思います。「何もない? 何かある?」とは、その感覚を、手探りで求めている様子を表しているんじゃないかなと。

マサムネさんの目線では、目の前に広がる海の景色は、「フツウ」だったのだと思います。テレビでも写真でもインターネットでも目にすることができる、珍しくもない見慣れた海の光景が、目の前に広がっていたことでしょう。

「海を見に行こう」とは、海が見えない人に海を見せたい、という、マサムネさんの優しさが詰まっている曲なのだと思います。






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