こんにちは。八百屋テクテクです。
今回は、スピッツ「波のり」について解釈していこうと思います。
この曲、エロ曲だと思っていませんか? エロ曲の解釈だと思って覗きにきたそこのアナタ、いったんコーヒーでも淹れて気分を落ち着かせてから、当ブログの「死神の岬へ」の項目に行ってください。大丈夫です。先に申しておきますが、この詞も、「死神の岬へ」も、エロ解釈ではありません。期待した方は申し訳ございません。でも、きっと後悔はさせませんので、ぜひ行ってみてください。
行きましたか? いって全部読んでから、どうぞこちらに戻ってきてくださいませ。
さて。「死神の岬へ」は、何もいいことがなくて死んでいった二人の話でした。
しかしこの話に、救いになるような後日談があったとしたら、どうでしょう?
死んでしまった二人が現代に転生して、ただただ愉快な日々を送っていたとしたら、それだけでめっちゃ感動すると思いませんか。
ビキニ環礁を含むポリネシア地域での核実験は、1958年まで続けられました。私の解釈によれば、死神の岬への二人は遅くとも1958年には亡くなっています。「いくつもの抜け道」を経て、あの世に旅立っているのです。
そして、草野マサムネが日本で産まれたのが、1967年のことです。ビキニにいた男女のうちの一人がこの世に転生して、草野マサムネになったわけです。
では、かつて恋人であった、彼女はいったいどこにいるのか。順番に詞を眺めてみましょう。
僕のペニスケースは人のとはちょっと違うけど
そんなことはもういいのさ
ここでの「ペニスケース」は、日本で販売されている普通の水着のことです。マサムネさんはサーフィンを楽しむために、普通の水着姿になっています。
でもこの詞ではあえて「ペニスケース」と表現する必要があったのです。なぜなら、この詞はかつて核実験が行われたポリネシア地域で亡くなった男性が転生したことを示唆したいからです。
「ペニスケース」は、ポリネシア地域特有の文化です。そして、サーフィンもまた、ポリネシア地域のものです。マサムネさんに転生したこの男性は、かつて自分がやっていたように、ペニスケースでサーフィンをしようと試みたのでしょう。でも日本の九十九里でペニスケースを堂々と着用することができないので、仕方なく普通の水着を着用しています。これに多少の違和感を覚えて、「人のとはちょっと違うけど」と思っているのです。つまりここでの「人」とは、現代日本人ではなく、ポリネシアの現地住民のことを指しているのです。
以上のような思考をしてほしいがために、あえて「ペニスケース」という聞きなれない言葉を使ったんじゃないかなと、私は思っています。
マサムネさんにとって波のりとは、ただの娯楽ではなく、かつての恋人との時間を思い出す、神聖な行為だったのです。
ピンクのサーフボードで九十九里に沿って飛ぶのさ
君の町まで届くかな
九十九里は、千葉県にある日本最大規模の砂浜、九十九里浜のことだと思います。ここはサーフィンの名所です。一方、「君の町」はどこかというと、ミクロネシアのビキニ環礁です。千葉から、ミクロネシアまで、サーフィンで行こうとしているわけです。「届くかな」と言っていますが、まあ届かないでしょう。もっとも、これは願望であって、本気でいこうとは考えていません。そういう想像をしているだけです。
迎えに行くから どうか待ってて僕のこと仔犬みたいに
晴れた日の波のりは愉快だな
核実験の爆発に巻き込まれて亡くなった二人でしたが、男性のほうはマサムネさんとして、この世に転生しました。とすれば、女性のほうも転生している可能性があります。今度こそ彼女を幸せにするつもりでいるので、「迎えに行くから どうか待ってて」と願っているのだと思います。
「仔犬」とは、スピッツのことです。マサムネさんは、現在スピッツのボーカルとして活躍しています。「君は、どんな人生を送っているかな。僕はといえば、仔犬みたいになったよ」と、まだ見ぬ彼女に言いたいのだと思います。
「晴れた日の波のりは愉快だな」は、前世の海でサーフィンを楽しんでいたように、今も九十九里で変わらず愉快に楽しめているのです。この何気ない愉快さが、平穏で平和な日常が、何よりも宝ものだと思っています。
枯れ果てたはずの涙も タンクに溢れてるのさ
このままで君はいいのかい?
「死神の岬へ」の頃の前世では、たくさん泣きました。二人で、涙が枯れ果てるぐらい泣きました。
転生したマサムネさんもまた、死に別れてしまった彼女を想っては、涙がタンクに溢れるぐらいになっています。もし再び現世で会えたら…という気持ちを抱えて、生きています。
「このままで君はいいのかい?」と、地球のどこかに転生しているであろう彼女に向かって、問いかけます。自分と同じ気持ちだったら、同じように涙がタンクに溢れそうになっているはずです。せつないですね。
くたびれたロバにまたがったビキニの少女がその娘さ
僕の顔 覚えてるかな
「くたびれたロバにまたがったビキニの少女」は、前世での彼女の性格からすると、現世ではきっとこんな格好をしているに違いない、とマサムネさんが想像した姿だと思います。彼女は現世でもきっと、楽しく過ごしているに違いありません。
「僕の顔 覚えてるかな」は、願望です。この広い世界で、彼女を探し出せずにいるので、せめて自分の顔だけは覚えていて欲しい、と願う気持ちです。もっとも強く望んでいるわけではなく、覚えていてくれたら嬉しいな、程度でいます。覚えていてくれたら、今もマサムネさんとその娘は、心のどこかで繋がっているということに、なるではありませんか。
迎えに行くから どうか待ってて僕のこと仔犬みたいに
ユラユラと カモメ気分さ 晴れた日の波のりは愉快だな
平和になった世界で、ゆるゆると生きている気分が「ユラユラと カモメ気分さ」に現れています。
という感じで解釈してみましたが、いかがでしたでしょうか?
「死神の岬へ」での絶望が強い分、「波のり」での平和っぷりがめちゃめちゃ尊くなります。「ペニスケース」の一文でエロい曲だと騒ぐのは、まあ若い人なら仕方のないことだと思います。小学生はウンコでめっちゃ喜びますが、これは健全な証です。エロい言葉を投げかけられて、妄想が爆発するのは、若い人ならしょうがないと思います。
とはいえ、他の可能性をまるごと潰してしまうのは、もったいないなと思います。この詞のことを、エロ曲だと決めつけて敬遠しているのは、めちゃめちゃもったいない話です。この解釈のように、遠く離れ離れになってしまった恋人の、平穏と幸せを願っている曲だという心持で聴いてもらうと、また別の世界の扉が開けると思うのです。
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