こんにちは。八百屋テクテクです。
今回は、スピッツ「恋は夕暮れ」について語っていこうと思います。
この八百屋テクテクのスピッツ解釈シリーズは通常、歌詞の意味を自分なりに解釈したものを披露してきましたが、この曲では、ちょっと嗜好をかえてみようかなと。
なので、このブログでは、細かい解釈はしません。まあ、歌詞のとおりなんですから、そんなに長々と解釈はいらないと思うんですよね。
むしろ、この歌詞を解釈する上で、踏まえておきたい前提があるのかな、と思って、このブログを書いています。
というのも、みなさん。「恋」ってそもそもなんなのか、知っていますか?
いやいや、何を言ってるのか。そんなの知ってるに決まってるだろ、って思いましたか?
そうですよね。人間だれしも「恋」をしたことがあると思います。人によって濃淡はあるにせよ、「恋」がどのようなものかについては、経験なり、知識なりで、誰もが理解しているものだと思います。
だからこそ、こう思うんです。
「恋」って誰もが経験をする分、その事例なり定義なりが膨大にあります。なので、ひとによって「恋」の解釈が違い過ぎているんじゃないかなと。例えば恋愛の曲を聴いた時「ああこれは恋の歌だよね。せつないわ~」と感じる人もいる一方で、「いや、これはちょっと、グイグイきすぎてキツイわ……」と拒絶をする人もいるし、逆に「男なのにナヨナヨしてるな~もっとグイグイ引っ張ってよ情けない」と、いきなり怒り出す人もいるでしょう。同じ曲を聴いたとしても、受け止め方は十人十色です。
なぜか。
「恋」とは、あまりにも個々人の趣味趣向に左右されるものだからです。
同じ出来事でも、マチマチな捉え方をする集団において、「これは恋です」と定義づけることが、はたして可能なのでしょうか?
話はちょっと変わりますが、「恋」は、子孫を残すためのものだという説があります。確かに、恋をしなかったら、人間は結ばれることもなくなり、子孫を残さないようになるでしょう。妊娠も出産も子育ても、基本的には辛いものですから、恋がなければ、誰もやりたがらないと思います。逆に言えば、恋があるからこそ、乗り越えてこれたのだと思います。これはまぁ、感覚的にわかる話ですよね。
一方で、プラトニック・ラブという言葉があります。プラトンという大昔の哲学者が考えた恋の形のことなんですけど、それはどういうものかというと、「恋」から性愛の要素を取り去った状態のことを指すそうです。性愛は、不道徳なものと結びつきやすい性質がありますよね。キャバクラは恋を疑似体験できる場所ですが、犯罪を生業とする暴力団が運営していたりしますよね。京都の吉原にいた花魁は、奴隷商人が仕入れた奴隷です。キャバクラも花魁も、恋を楽しむ場所だとされていますが、その実は、男性の愛欲を巧みに引き出すことでお金を儲ける場所なのです。性愛は、こういう良くない側面がありますので、恋から性愛を切り離して、純粋な恋のみを取り扱うことができれば、いい恋ができるんじゃないかと考えていたのです。性愛を伴わない恋愛が、恋の中でも至高だということなんですね。
恋愛といえば、若者の恋愛離れ、が現代において指摘されています。恋愛に至るまでにはいろいろ細かい作法があって、初めての人にとっては、大変面倒くさいモノなんですよね。恋愛をするには、ある程度勉強が必要なんです。まあ勉強しなくても、自然体でモテモテの人もいれば、そういうの気にしない人もいる一方で、めちゃくちゃ勉強してもどうにもならないような恋愛に不向きの人も、残酷ですが、存在しています。一律でないところもまた難しい話なのです。そうやって頑張って恋愛を成就させたとしても、結果得られるものは、相手からの束縛であったり、依存であったりと、これまた面倒な負の側面があります。これらの面倒くささと、恋愛の喜びを天秤にかけた時に、面倒くささが勝ると、現代の若者は判断しているわけです。
さらに現代の若者は、仕事に趣味に娯楽にと忙しく、恋愛をしている暇がないんですよね。もっといえば、恋愛の幸福感よりも、仕事や趣味や娯楽で得られる幸福感のほうが勝ると考えています。先ほどでてきたプラトニック・ラブですが、本来は芸術や学問などに対する、恋のような探求心のことを指していたようです。そういう意味では、現代の若者は、自分が追い求めたいものに対して、プラトニック・ラブをしているというわけなんですね。
ところで、フランスの若者の間では、恋愛相手と結婚しない「同居」が流行っているようです。結婚とは制度です。結婚したという書類を自治体に提出すれば、いろいろな補助が受けられる優遇措置なわけです。また結婚となれば、相手に、生活において依存してしまう側面もあります。いやな言い方になりますが、結婚とは、国や相手に「寄生」する行為なんですよね。独立精神の強いフランスの若者は、既存の結婚制度で生じている「寄生」を嫌い、追い求めた生活スタイルが、「同居」なのです。同居人同士なら、メシを作る義務も、生活費を稼ぐ義務も発生しません。なので、相手がメシを用意していなくても、相手の稼ぎが悪くても、怒る理由もないということです。逆に、美味いメシを作ってくれたり、思いがけないプレゼントがあったりした時は、期待していないだけ、喜びも大きいでしょう。
とまあ、長々と恋に関するお話をさせていただきましたが、こんな感じで、ひとくちに「恋」といっても、個々人によっては多種多様であることが理解できたと思います。「恋」に対する捉え方も、距離感も、てんでバラバラなんですよね。
なんで、こんな話を長々としてきたのかというと、やっと本題に入りますが、「恋は夕暮れ」とは、「マサムネさんにとって恋とは何なのか」についての曲であり、「人類全体によって、恋とは何なのか」についての曲ではないということです。
「恋」の捉え方は、人によって違います。私が面白いと思ったのは、「恋は夕暮れ」を聴いた人の解釈が違いすぎることです。「ロビンソン」の大ブレイクにより、スピッツがこれまで細々と発表してきた曲が広く知られることになったのですが、そこで「恋」についての曲があるということで注目されたのが、この「恋は夕暮れ」なのです。というのも、スピッツのほとんどの曲は、確かに恋について描かれたものですが、その描かれ方というのは「昔、こういうことがありましてね……」的な、エピソードを紹介する形です。世の中の恋の歌は、だいたいこういう感じですよね。一方で「恋は夕暮れ」は、「恋って、こういうものじゃん」という、マサムネさんなりの恋についての考え方を披露してくれた曲となっています。これは、でかいですよ。あまり注目されていないかもしれませんが、すごく、でかいです。
だからこそ、というべきでしょうか。「恋は夕暮れ」について、「あまり好きではない」という声も、たびたび聞いてきました。なぜなら、自分の「恋」の定義に、かっちりと当てはまらない曲だったからです。私の少年~青年時代には、「恋は夕暮れ」を、ナヨナヨした曲だという理由で避けられていました。「届かないテレパシーってなんだよ。想いを伝えたいなら、ちゃんと告白しろよ」「蝶々とかじゃなくて、カブトムシとかになれよ。aikoのほうが強いぞ」「男なんだから、武器を捨てちゃダメだろう。手に入れたいものがあるのなら、力づくでとりに行かなくちゃ」みたいな感じで。確かにこの時代の「恋」のトレンドは、男性が女性を積極的にグイグイ引っ張っていくのが一般的だったのです。ちょっとやそっと女性に嫌がられても、男性はクヨクヨ気にしてはいけません。そんな強引さが、男性の逞しさ、男らしさだとされており、クヨクヨ悩むのは男らしくないとみなされていたからです。「嫌よ嫌よも好きのうち」だなんて慣用句まであり、好きだけど嫌がっているフリをしているのか、本当に嫌がっているのか、それが解るようになって男は一人前、みたいなことが、まことしやかに言われていた時代でした。
現代では、どうでしょう? 男性が女性に対して想いを伝えることは「告白ハラスメント」という迷惑行為になりました。また女性への過度なつきまといは、ストーカーというれっきとした犯罪行為になります。「焼きついて離れない瞳」の部分で、寒気がしてくる女性もいるのではないのでしょうか? 「テレパシー」を勝手に送られても困りますし、「不幸の薬」を飲まれるのも恩着せがましいし、「悪魔」にすら祈って何を叶えようとしているのでしょう? たいした関りのない人にこれをされたら、たまったものじゃないですよね。恐怖としか、いいようがありません。「恋」という免罪符があれば、何をしてもいいという時代は終わりました。
このように、「恋」に関する捉え方が千差万別なため、マサムネさんによる「これが恋です」という曲についても「そんなわけないだろう」という反発が来るのも、当然といえば当然ですよね。それも、「ナヨナヨしている」という反発と、「強引すぎる」という反発という、真逆の方面からの反発があるわけです。これがただのエピソードなら、「まあそういうこともあるよね」で済んでいた話も、「恋」そのものを主題として取り上げてしまったゆえに、こういうことになるというわけなのです。これはマサムネさんが悪いのではなく、誰がやっても一緒です。別に聴き手が悪いわけでもありません。感覚がずれていることが、不幸なだけです。
上記の理由により、「あまり好きではない」「受け入れにくい」という声が上がる「恋は夕暮れ」ですが、だからといって相対的に評価を下げてしまっていいのでしょうか?
私は、それは勿体ないと思うのです。
先ほども述べた通り、この曲には、マサムネさんの「恋とは何か」についてのエッセンスが、ギュッと詰まっているからです。「恋」そのものを主題にして、真正面から向き合った、とても珍しくて正直な曲なのです。マサムネさんが生まれてから、この詞を書き上げるまでの間の、恋の集大成を綴っている曲なのです。これを、すごいと言わずに、なんと表現すればいいのでしょう。そのぐらいデカいものだと、私はこの詞について認識しています。
「恋とは何か」について、考えている哲学者は多いです。哲学書のコーナーにいけば、面白いぐらい「恋」について書かれた本が見つかります。でも、哲学者が語る「恋」って、どのくらい信憑性があるのでしょう? 哲学者とお付き合いすれば、最高の恋愛ができるのでしょうか?
「恋」といえば、ナンパ師を自称する男性の恋愛テクニックが書かれた本を読んだことがあります。「我こそが、日本でもっとも恋愛の本質を知る男ナリ」的な感じで、上から目線でいろいろ教えてくれる感じの本でした。彼は延べ4000人を超える女性と一夜を共にしたらしいですが、それを可能にするにはどうしたらいいか、を分析し解説しておりました。延べ4000人はすごいですけれど、さて、彼は本当に、恋愛の本質とやらを日本で一番知っている人になるのでしょうか?
まあ、正直なところ「恋」については、誰の意見が正しいとか、そういうのはありません。ひとによって、何を大事にしたいかで、意見が変わってくるからです。哲学的な思考を巡らすのが恋において最も大事だと思う人なら、哲学者の意見を参考にしたらいいと思いますし、より多くの女性と性行為をしたいとお考えの方は、ナンパ師の意見に耳を傾けるのがいいと思います。
私は、「恋とは何か」について、スピッツの草野マサムネさんならどう思っているのか、についてのみ、関心があります。
数多くの名曲、名詞を生み出してきたマサムネさん。なによりも心を打ち、人々を感動させる曲を作り続けてきたマサムネさん。その彼が、「恋」をどういうふうに考えているのか。それを書き記した詞が、「恋の夕暮れ」なのです。
これは、すごく価値のある詞だと、私は思っています。マサムネさんに「恋とは何か」を教えて貰えるわけですから。
源氏物語が国語の教科書に載っているのと、似たような話かもしれません。源氏物語は、主人公の光源氏が、栄華を謳歌し、富をむさぼる一方で、あらゆる女性に手を出して、恨まれたり憎まれたり、悲しませたりしています。あらすじだけを聞くと「なんやその不愉快な話は」となりますが、源氏物語の一字一字をなぞることで、作者である紫式部が、いかにこの物語を愛していたのかを知ることができます。「不愉快な」とも思われるかもしれない話を、恐れず、魂を込めて、描いていたのです。
もし、時代がもっと進んで、マサムネさんを知る人がいなくなるぐらいの未来になったら、「恋は夕暮れ」が、その当時の人々の恋愛観を研究する材料として、国語の教科書に載っているかもしれません。
どうですか? こういう説明をされると、ありがたみが増してきませんか?
「恋は昨日よりも美しい夕暮れ」
その意味を考え続けることで、マサムネさんが持つ、みずみずしい感性に迫ることができると、私は思っています。
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