こんにちは。八百屋テクテクです。
今回は、スピッツ「幻のドラゴン」について解釈していこうと思います。
この曲を最初に聴いた時「大好きな彼女のために、自分を奮い立たせるため、ドラゴンに見立てて頑張る」的な解釈をしていました。いや実際そういう想定で作成されたものなのかもしれませんが、どうもそれだと物足りないというか、意味が通じにくい箇所がでてきてしまうんですよね。
「なにを破壊する必要があるんだろう? 壁の向こうはちゃんと考えないと近所迷惑になるんじゃない?」
「君に夢中で泣きたい最中に、ゆらゆら空をドラゴンが蛇行しているのは何故だろう?」
「予感もなく突然現れた赤い果実、ってなんのことだろう?」
「ザクザク坂って、どういう坂だろう?」
もし、恋愛の話を描くなら、もっと違った表現もあるはずなのに、なにかこう、恋愛感覚とマッチしにくい言葉をあえて選んでいるような、そんな不自然さを感じてしまうのです。マサムネさんは作詞の天才ですから、恋愛の曲として描こうとしたなら、もっと違った表現になるはずなのです。
「ということは、もしかしたら恋愛のことを歌った曲ではないのかもしれない……」
と感じたのが、今回のブログを書く原動力となっております。
もっと恋愛以外で、なにかこう、しっくりくるような解釈がないだろうか、と思って考えてみたところ、こうなんじゃないかなと思うものが見つかりました。
題して、「幻のドラゴン、明治時代説」です。
明治時代の日本については、どのようなイメージがありますでしょうか?
明治時代のひとつ前の時代は、江戸時代です。江戸時代には武士がいて、刀で斬り合いをしていました。それこそ幕末など、幕府軍と新政府軍が激突した戊辰戦争が勃発するなど、血なまぐさい時代を経験しています。その苛烈な時代は、同時に何人もの英雄を誕生させました。岩倉具視、大久保利通、西郷隆盛、伊藤博文、板垣退助、山県有朋、大山巌、東郷平八郎といった面々は、歴史の教科書にもれなく乗っています。彼らの、オノレを律する厳しい武士道精神と、近代化を推し進めようとする熱量が、この時代の日本を力強くけん引していました。殖産興業、富国強兵が一気に進み、日本は欧米諸国に勝るとも劣らない、近代国家の仲間入りを果たしたのです。
明治時代の後半に起こった日露戦争では、当時世界最強の海軍であった大国ロシアのバルチック艦隊と、小さな辺境の島国でしかなかった日本の艦隊が日本海で激突し、結果ロシアの艦隊を壊滅させました。小国日本は、大国ロシアに対し、海戦歴史上まれにみる大勝利を収めたのです。船をオールで漕いでいた江戸時代から、たった50年あまりで、世界最強の艦隊を沈めるまでに、日本は成長できたのです。
今と比べて、というと、ちょっとアレなんですけど、教科書に載るような功績を残した日本の政治家は、平成や令和でどれだけいたでしょう? 江戸時代からの50年で、屋形船みたいな木造船から、世界最強の海軍艦隊と戦えるまでに成長しましたが、平成から令和の時代において、それだけの成長を成し得た分野は、どれだけあったでしょう?
この「幻のドラゴン」は、今となっては幻ともいえるぐらいの、明治時代における日本の熱量を曲にしているのかなと。
破壊することだけ壁の向こうは考えず
眠れない夜更けに水一杯飲んで飛び出す
五感をすべて 働かせて
細すぎる糸を遠くまで 紡いでゆく
幕末から明治の頃は、世界的には植民地時代とも言われています。ヨーロッパの国々は、「列強」と呼ばれ、アフリカ、中東、インド、中国、そして南アメリカと、様々な場所を占領し、植民地支配を行っていました。日本もまた、植民地にされるか、されないかの瀬戸際にいたわけです。アメリカのペリーが黒船の大砲をもって日本を脅し、フランスが幕府に肩入れし恩を売ることで不平等条約を結ぼうとし、逆にイギリスは新政府軍に武器を流すことで、新政府軍に取り入ろうとしました。こういう幕末の、ぐっちゃぐちゃの混乱期のかじ取りをするには、もう破壊しかないんですよね。一旦更地にしてそこに新政府を樹立し、日本をひとまとめにして列強支配に対抗する。これしか方法がありません。列強という大きな壁の向こう側にあるものなんて、考えている余裕のない状況なのです。
「水一杯」のくだりは、日本は水の国です。治水が行き届いているほか、神事や儀式にも使われる大事な要素です。武田信玄の部下であった馬場信房は、決戦の際、普通は酒を盃に注ぐところを、酒がなかったので水を注ぎ、飲み干すよう指示しました。いわく、水も酒の代わりになる、と。本当はこの詞も「酒一杯」だったかもしれません。決戦前日、眠れない夜更けに飛び出していくのに、酒でなく水を選んだのも、古代日本人を象徴しているかのようです。
「細すぎる糸」の部分ですが、糸を紡いで、錦を作ろうとしているものと解釈しました。錦は、天皇家を指します。錦の御旗(にしきのみはた)という言葉がありますとおり、糸を紡ぐのは、天皇家を暗示するものであり、つまり国家を暗示するものです。遠くまで紡いでいくのは、列強の支配を拒絶し、日本が独立国家として運営できるようにしようとする、明治政府の意気込み、という意味なのではないのでしょうか。
君に夢中で泣きたい ゆらゆら空を渡る
燃えているのは 忘れかけてた 幻のドラゴン
こうなりますと、「君」というのは、目の前の人物ではないということになります。「君」=「ドラゴン」ということになり、この場合の君やドラゴンは、明治時代の日本ということになります。
歴史を調べていくうちに、明治時代の日本の熱さに魅了され、思わず泣けてくる、という意味ではないのでしょうか。
今の日本はといえば、いじめ問題、オレオレ詐欺、投資詐欺、人を殺してみたかった等の訳の分からない理由での通り魔殺傷事件、大手有名企業による悪質な粉飾決算やパワハラ、セクハラ事件、悪事を働いてお金を儲けるユーチューバーに、他人の悪事を晒してお金を儲けるユーチューバー、相手が死ぬまで攻撃をやめない陰湿なSNSと、それらを取り締まることもできない硬直した法機関と、モラルを問われる事件、事象が多発しています。ひとくちに「現代人は」と一括りにしてしまうのも乱暴ですけれども、こういう気合の入っていない連中と、明治時代を支えた英雄たちとを見比べてしまうと、どうしても明治時代における日本の輝きは「幻」だったんじゃないかと、思ってしまいます。
でも、明治時代の昔は、ゆらゆらと空を渡っていくドラゴンのような日本が、確かにあったんです。燃えていた時代があったんです。同じ日本人によるものとは思えないほど温度差がありますが、れっきとした事実なのです。
予感もなく突然現れた赤い果実
優柔不断な気持ちはマッキーでぬりつぶす
ありがとうとか 言われたくて
危ない道あえて選んでは 突き進んでいく
「マッキー」とは、何でしょう?
明治時代路線で読み解くなら、たぶん、ウィリアム・マッキンリー第25代アメリカ大統領のことではないのかなと。マッキンリー大統領は反日派、というより、「あんな小島、眼中にない」といったスタンスで、中国やロシアに対する、アメリカの影響力において邪魔になるという理由で、日本を攻撃しようとしました。日本なんて、簡単に踏みつぶせると考えたからです。これに対して「マッキーが攻めてくるわ」と軍備を固めたのが、日本です。マッキーが、日本の優柔不断さを塗りつぶした、と言えるでしょう。
「予感もなく突然現れた赤い果実」は、艦砲射撃、つまり戦争のことなのかなと。数十ミリにも及ぶ、果実のような大きさの艦砲弾は、人々の血肉により、赤く染まるからです。
ちなみに、マッキンリー大統領の後任はセオドア・ルーズベルトで、彼は日露戦争後の条約であるポーツマス条約時は、親日でした。マッキンリー大統領とは違い、ちゃんと日本の実力を認めていたというわけです。もっともその後、日本脅威論にまでになり、日本と敵対していくわけですが……。
「危ない道あえて選んでは突き進んでいく」とは、まさに当時の日本そのものです。当時の日本は、アメリカ大統領を敵に回してでも、世界中を敵に回してでも、自分たちの主張を通そうとしてきました。列強に迎合し安易な道を選んだ中国は、アヘンまみれになり、政府としての機能不全に陥りました。日本は強い意志で危険な道を歩んできたからそこ、大事なものを守りきれたというわけです。
君に夢中で泣きたい ザクザク坂も登る
よみがえるのは 小さいけれど 強気なドラゴン
「ザクザク坂」とは小説「坂の上の雲」のことを指しているのではないかなと。
「坂の上の雲」は、司馬遼太郎の歴史小説で、時代背景がバッチリ重なっています。タイトル「坂の上の雲」は、この時代の日本人は、雲をつかむ勢いで坂道を登って行ったことから付けられたそうですが、この表現と、「幻のドラゴン」に使われている、坂を上っていく人物も背景も一致しています。
また最後に「よみがえる」とあります。蘇るということは、過去に存在しており、そして一度死んだということです。明治時代に煌々と燃えていた日本人の魂は、確かに現代日本においては、死んだも同然でしょう。でも、「よみがえる」と言っています。「小さいけれど強気なドラゴン」が。国土は狭いけれど、強い時代の日本が、蘇ると。
いつになったら、そんな時代が来るのか、あるいは来ることが本当に幸福なのかどうかはわからないですけれども、「幻のドラゴン」は、そういう強い日本が再び来ることを熱望している曲なのだと思います。
という感じで解釈してみましたが、いかがでしたでしょうか?
「日露戦争」の話とか「強い日本」などと書くと、「戦争賛美だ」とか言われちゃうので、なかなか表立って言えない話なんですよね。ましてや、影響力のあるアーティストとなれば、なおさらです。先ほどの話で少し触れました司馬遼太郎氏など、日露戦争時の日本を題材に小説を仕上げたために、危険人物として各方面から批判されています。彼は平成初期に亡くなっていますが、令和になった今でも、歴史をゆがめた戦犯として非難されつづけるハメになっているわけですから。もちろん司馬氏の功績には賞賛の声も多いんですけど、批判されるぐらいなら賞賛もいらないや、というのが今の時代ですから。話をややこしくしないようにするには、変なところに首を突っ込まないようにするのがベターです。
マサムネさんが本当に、明治時代の日本に対する思いを、この詞に込めたのかどうかは謎です。仮にもしそうだったとしても、上記の理由により、大々的に発表するのが難しいでしょう。
なので、こういう、目立たない八百屋さんのブログにでも、そっと記しておくのが、もっとも正解に近いんじゃないかなと、思うのであります。
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