こんにちは。八百屋テクテクです。
今回は、スピッツ「僕の天使マリ」について解釈していこうと思います。
とはいっても、「解釈が必要なことって、ある?」ってぐらい、この詞はストレートでわかりやすい曲となっていますよね。「僕の天使マリ 大好きだよ どこへも行かないで」っていうのが、全てでしょう。そう素直に解釈できるのが、この詞のいいところです。
しかしながら。
この八百屋さんは、いつも、ちょっと変わった解釈をしています。野菜の曲じゃないのに、野菜の曲に無理やり仕向けたりと、歌詞解釈が自由であることをいいことに、やりたい放題やっているわけですが、「僕の天使マリ」についてもまた、感性の赴くままに、好き放題に解釈していきたいなと。
この曲の、どこにそんな「僕の天使マリ 大好きだよ どこへも行かないで」以外の解釈のやりようがあるというのか、と思いましたか? そうですね。確かにそれ自体は、動かしようがありません。
解釈の余地があるとすれば、背景です。
はたして「僕の天使マリ」とは、何者なのか。
なぜ、探し物が見つからないのか
心のブドウ酒とはいったい何なのか。
このあたりを深堀していったところ、あることがわかったのです。
それは、僕の天使マリは、実は天使じゃないんじゃないか、ということです。
タイトルには「僕の天使マリ」とありますが、歌詞の中では、天使は出てこなくて「マリ」のみとなっています。
まず引っかかるのは、そこです。
どうしてマサムネさんは、この曲を「僕のマリ」にしなかったのでしょう? なぜ、わざわざ「天使」の二文字をタイトルに追加しなくてはいけないと考えたのでしょう?
その理由は、私は、「マリ」は、この世のものではない存在だからじゃないか、と思うんです。
普通の人間を想定しているのなら、「天使のように高潔で眩しくて、癒しをくれる存在」であることを、歌詞の中に入れ込もうとすると思うんです。歌詞の中で、その天使さを表現できると思うんです。作詞の天才マサムネさんなら、お茶の子さいさいで、やってのけると思うんです。
しかし、歌詞の中でその天使さを語らず、タイトルのみに「天使」を使う。こんなズボラを、マサムネさんがするだろうか? と考えた時、「……これは、本当に、摩訶不思議な存在に出会ったことを表現した曲なんじゃないか」と思い至ったわけです。
人間のように泣き虫でドジで、この世に探し物をしに現れたけど見つからず、途方に暮れているうちに僕と出会った……。そんな物語が、この詞とタイトルから、見えてくるのです。
実際に、歌詞を眺めていきながら、このあたりを見てみましょう。
今だって君のことだけしか映らないんだマリ
まだまだ知りたいことがたくさんあるんだよマリ
僕の心のブドウ酒を 毒になる前に吸い出しておくれよ
マリ マリ マリ 僕のマリ もうどこへも行かないで
「マリ」というと、真理とか、麻里とか、日本人の名前が当てはまりますが、実はマリーという西洋の名前かもしれません。マリーだとすると、メアリー、マリアなんかも当てはまりそうです。天使マリア、と書くと、だいぶ印象が違ってきますね。
ところで、天使マリア、という天使は存在しないようです。マリアは、聖母マリアの名前として使われているからです。イエスという名前の天使がいないように、マリアを天使の名前として使うことが憚られたのだと思います。混乱しちゃいますからね。
となると、「僕の天使マリ」って、いったい、何者なのでしょう? 「僕にとっては天使のような存在マリ」ということを言いたいはずなのですが、実際には天使ではない。かつ、この世のものではない。
さらに注目すべきは、「僕の心のブドウ酒を 毒になる前に吸い出しておくれよ」という部分です。なぜここで、ブドウ酒を使わなければいけなかったのでしょう? ブドウ酒は、しばしば血液の比喩として用いられます。自分の中にある、血液を、吸い出してほしい、と、僕がマリに望んでいるとしたら、マリは吸血鬼かもしれません。
吸血鬼は、不死の存在です。なので、僕が知らないことも、たくさん知っているでしょう。「まだまだ知りたいことが沢山あるんだよ」と言っているのは、本当に、マリが膨大な知識を備えていた存在だったのかもしれません。
かつ吸血鬼は、血を吸うために、美男美女の姿をしていると言われています。男性を虜にするのは、美女の吸血鬼です。「僕」は、その美貌に魅了され、みずから血液を差し出してしまっているのかもしれません。
朝の人混みの中で泣きながらキスしたマリ
夜には背中に生えた羽を見せてくれたマリ
きっとこんな世界じゃ 探し物なんて見つからない
だけどマリ マリ マリ 僕のマリ もうどこへも行かないで
とはいえ、吸血鬼マリは、血液を吸うために男を惑わす、冷酷な悪魔だったわけではないようです。
「僕の天使マリ」は、伴奏がとてもコミカルですよね。たぶんこの吸血鬼マリは、とてもコミカルな性格だということを表現したかったんじゃないかなと。
そのコミカルさは、2番の歌詞でも出てきています。
「朝の人混みの中で泣く」というのは、普通ならあまりないことです。なんで、こんなことになったのでしょう? マリは吸血鬼だから太陽に弱く、日中は太陽が当たらない場所にいなければいけなかった。でもマリは深夜のうちに「ふんふ~ん♪」ってお出かけして、そのまま迷子になり、隠れ家である僕の家まで戻ってこれなくなった。僕は心配になってマリを探し回って、やっと人混みの中で怯えているマリを見つけた。マリも僕を見つけると、「うわーん!」って泣きだして、僕に駆け寄ってきた……。というストーリーを考えてみたんですけど、どうでしょう? それっぽくないですか?
「夜には背中に生えた羽を見せてくれた」の部分は、裸の背中を見せてくれた、つまり性行為という捉え方をしている人も多いですけど、もしかしたら、本当に羽を見せてくれただけなのかもしれません。「どう? いいでしょ~?」みたいな感じで、背中の羽を見せびらかせてきただけなのかもしれません。マリが吸血鬼だったとしたら、コウモリみたいな羽が生えているはずです。
「マリの探し物」のところもまた、「マリって、実は天使じゃないんじゃないかな」との見方を強めた場面です。天使の場合、守護天使などのように、誰かの天使であることが多いのですが、マリが本当に「僕の天使」であったのなら、探し物は「僕」のはずです。かつ、「もうどこへも行かないで」と願っているということは、一度はどこかへ行ってしまったことがあるということです。これは、天使の行動と矛盾しています。
かりに、マリが吸血鬼だったら、どうでしょう? 吸血鬼が探しているのは、生贄となる人間と、太陽から隠れられる場所です。エレクトロニクスのこの時代に、吸血鬼が安全に過ごせて、血液を得られる場所なんて、吸血鬼に理解のある人のもとでしか存在しえないでしょう。フラフラと出ていけば、太陽に当たって消滅するか、捕獲されて人体実験される羽目になります。
今だって君のことだけしか映らないんだマリ
まだまだ知りたいことがたくさんあるんだよマリ
僕の心のブドウ酒を 毒になる前に吸い出しておくれよ
マリ マリ マリ 僕のマリ もうどこへも行かないと約束して
僕を見つめていて
それでも、マリは、フラフラとどこかへ行こうとしてしまいます。吸血鬼ですので、身体をコウモリにも霧にも変化させることができます。そりゃあ、どこにもいかないように物理的に縛っておくことは不可能です。なので「約束」をしています。
という感じで解釈してみましたが、いかがでしたでしょうか?
吸血鬼マリ、という解釈をしたとしても、大筋の解釈においては、ほとんど変わることがないと思います。「僕にとっての天使、マリ」っていう主張は、変わらないと思います。
ただ、マリが吸血鬼であることで、その可愛らしさが、より強調されるんじゃないかな、と個人的には思います。
マリは忌み嫌われる存在の吸血鬼だけど、実は迷子になっちゃうドジで、泣き虫で、でも背中の羽を自慢してくるぐらいお調子者で……。すぐにフラフラとどっかにいっちゃう子だから「君は僕の天使なんだから、どこにもいかないで」と約束してみたら、「天使? ほんと? やったー! じゃあここにずっといる~!」って大喜びした。なので、吸血鬼マリは、「僕の天使マリ」ということになりました。みたいな物語が、垣間見えるようです。
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