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スピッツ「五千光年の夢」は、人知を超えた才能の話だった説。



こんにちは。八百屋テクテクです。

今回は、スピッツ「五千光年の夢」について解釈していこうと思います。

この曲は、谷川俊太郎先生の詩である「二十億光年の孤独」を、マサムネさん目線で表現した内容なんじゃないかなと思います。いや、マサムネさんはこの詞について「高橋新吉氏の詩である、5億年のくしゃみのような詞を作りたい」と言っていたそうですが、「二十億光年の孤独」もまた、「5億年のくしゃみ」を参照しているみたいなので、これら3つの作品は作者の違いはあれど、同じような内容の事を表現したかったと見ることができます。


さて、「二十億光年の孤独」に出てくる、二十億光年という単位も、「5億年のくしゃみ」における5億年も、どちらも宇宙の限界を表しているそうです。二十億光年は、人間が現在観測できる宇宙の限界(当時)であり、5億年は宇宙が誕生してから現在に至るまでの時間になっています。詩の巨人である二人の先生の詩は、人間の理解が及ぶ宇宙の限界についての詞なのです。

もうひとつ、この2作の詩には共通点があります。それは「くしゃみ」です。どちらも詩の中で、くしゃみをしているのです。これは、宇宙ほどの広大なものを人間の頭の中で理知的に理解するのは難しい、ということを表しているそうです。二十億光年先、あるいは5億年前にまで思考を伸ばそうとしても、言葉で言い表せない領域に、どうしてもなってしまうのです。人類の叡智を結集した科学技術をもってしても、そこに到達するのは無理なんじゃないかなと。でも人間の、生物が持っている原始的な本能や感覚みたいなものだったら、あるいは、捉えることができないんじゃないか、みたいな。そういう人間の感覚における無限の可能性に、夢やロマンを抱いている詩なのです。


さて、スピッツの「五千光年の夢」はどうでしょう? 谷川俊太郎の二十億光年に比べると、40分の1の距離になりました。が、それでも光の速度で5千年かかる距離です。だいたい100年しか寿命のない生身の人間には、とうてい到達できそうにない、途方もない距離になります。

人知を超えた才能の持ち主である、谷川俊太郎先生や高橋新吉氏がたどり着いた領域には到底たどり着けないので、せめて40分の1の場所を目指して、アーティストとして頑張ります、という、マサムネさんの意思表示が、この詞に込められているんじゃないかなと、私は思っています。

はたしてマサムネさんは、どんなふうに、未知の領域にチャレンジしていこうとしているのでしょうか。

詞を順番に眺めていきましょう。




五千光年の夢が見たいな うしろ向きのままで

涙も汗も吹き飛ぶ 強い風に乗って

「五千光年の夢」を見るのは、限られた人にしか無理なのです。谷川俊太郎先生は、観測可能な宇宙の領域にまで手を伸ばしていますが、それは彼が卓越した才能の持ち主だったからです。マサムネさんもまた天才だとは思うんですけど、マサムネさんからすれば、谷川俊太郎先生が受け止めたうちの40分の1のモノでも、受け止めるのがとても難しいと感じています。五千光年の夢を想像しようとしただけで、マサムネさんの感覚器が、強風でいまにも吹き飛びそうになっています涙や汗なんか、すでに吹き飛んでいってしまいました。強風で目を開けていられないので、「うしろ向きのままで」なんとか強風に耐えるしか、マサムネさんにはできないのです。

こんな風に、自分の能力では受け止めきれない規模の夢なんですけど、それでも、見たいと思っています。



すべてが嘘だったとわかった

お弁当持ってくれば良かった

なんだか寂しいな なんだか寂しいな

「すべてが嘘だったとわかった」ですが、宇宙の法則なんて、未だによくわかっていないのです。広大な宇宙に比べれば、私たちが住んでいる地球なんて、原子を構成している原子の、そのまた先にある原子のようなものです。どれだけ小さい単位を使っても表現しきれないぐらいの小さな小さな地球にて、そこに住む小さな人間たちが、無い知恵をしぼって考えたのが、今考えられている宇宙のすべてなのです。そんなもの、何かちょっとしたことがきっかけで、すぐに覆ってしまいそうです。

でも、そんな頼りないものを、真実だと真面目に思い込んで、誇らしげに語っているのが、今の科学技術なのです。科学で証明できることだけが真理だ、などと科学者たちは鼻息を荒くしていますが、視点を宇宙規模に広げてみると、いかに頼りないものかがわかるというものです。まだまだ未発達の科学を駆使して突き止めた真理なんて、次の時代には、「すべてが嘘」になることなんて、よくあることなのです。

そういう、宇宙規模の時間や空間に感覚を委ねていると、お腹がへります。「お弁当持ってくれば良かった」という、ごくごく日常的な視点に、結局のところ戻ってしまうのです。これは、先の二人の先生が「くしゃみ」と表したことに似ています。先生たちはくしゃみをして、マサムネさんはお腹がぐ~っと鳴るのです。

「なんだか寂しいな」という感傷もまた、重要です。とてつもなく大きな宇宙を眺めて、ひとは何かを感じるはずなのです。「怖い」と思う人もいれば、「かっこいい」と思う人もいるでしょう。会社で怒られたことをクヨクヨ気にしていた人なら「どうして俺は、あんなちっぽけなことで悩んでいたのだろう?」と、我に返ったような感覚を手に入れることでしょう。マサムネさんは理由はわからないけれど「寂しい」だったそうです。「寂しい」という感覚が沸き上がってくるあたり、やはり彼は凡人とは違う何かを持っているみたいですね。



五千光年の夢が見たいな 淡い緑のシャツ着て

頭ガイコツの裂け目から 飛び出してみよう

「頭ガイコツの裂け目から 飛び出してみよう」とのことですが、これはトレパネーションを彷彿とさせます。

人間の赤ちゃんは、頭蓋骨にすき間があります。このすき間により脳が圧迫されないので、赤ちゃんはいろんな経験や感覚に対して、豊かに吸収できるのです。ところが大人になるにつれ、このすき間が閉じます。脳が圧迫され、吸収が制限されるのです。トレパネーションは、閉じてしまった頭蓋骨に穴をあけることを指します。こうすることで本来の脳みその可能性を引き出し、赤ちゃんみたいに柔軟な感性を手に入れて、いろんな可能性を吸収していくことができる、と考えられてきました。でもこれは、大昔の風習みたいなものであり、もちろん科学的根拠はありません。

でも、マサムネさんは、そんな迷信に頼ってまで、才能を手に入れたいと願っています。凡人が、人知を超えた才能を手にするには、頭蓋骨に穴をあけるぐらいしないと、無理なのです。



ゆがんだ天国の外にいて

ずるい気持ちが残ってるから

ちょっと照れくさくて ちょっと照れくさくて

「ゆがんだ天国」とは、大宇宙の理から歪んだ場所にある、歴史上の天才たちが集っている天国のことだと思います。高橋新吉氏や、先日お亡くなりになった谷川俊太郎先生も、ここに行ったのでしょう。一方でマサムネさんは、谷川俊太郎先生の40分の1の夢を受け止めるのでさえアップアップになっている凡人なので、残念ながら行くことができないことが決定しています。マサムネさんは、ゆがんだ天国の外にいるのです。

マサムネさんが、自分の頭蓋骨に穴をあけてまで欲しがった才能ですが、ついに手に入らなくて、「ずるい!」と、この先生方を妬んでいます。いや、「残っている」程度なので、尊敬9割、嫉妬1割といったところでしょうか。

そんな、才能もなく、他人を妬む気持ちを引きずっているマサムネさんが、「五千光年の夢」という、大見出しのタイトルの曲を作ったのです。なまじ自分の実力を知っているので、「ちょっと照れくさくて」という気持ちになっています。「生意気言って、どうもすみません……」みたいな気持ちでいるようです。

アーティストとして、尊敬する二人に近づきたくて「五千光年の夢」を表現したい気持ちがあります。その一方で、二人の天才たちに及ばないことも十分わかっています。そんなもどかしい気持ちが、「ちょっと照れくさくて」として、表現されているのだと思います。





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