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スピッツ「ナンプラー日和」からわかる、いじめの乗り越え方



こんにちは。八百屋テクテクです。

今回は、スピッツ「ナンプラー日和」について解釈してみようと思います。

この曲は、ただただ明るい曲、というわけではなさそうです。「イジメだらけの世界」と歌詞中に出さざるをえないくらい、何か深刻な背景があるように思います。そんな深刻な悩みを抱えている子に対して、「世界はもっと広いんだ、どこかに光はあるもんだよ」と、明るく前向きになれるよう、慰めているような曲じゃないかと思うのです。

その、「イジメだらけの世界」の乗り越え方を、教えようとしてくれている曲なんじゃないかなと、私は思うのです。

どういうことなのか。順番に眺めていきましょう。




愛しいあの娘の笑顔で 楽しい時間になりそうさ

イジメだらけの世界でも どこかに光はあるもんだ

「ナンプラー日和」には琉球音楽が取り入れられています。歌詞中にこそ直接的に触れている部分はありませんが、この曲はあきらかに沖縄の文化、もっといえば沖縄の伝統舞踊であるエイサーを感じさせるものになっています。「ナンプラー日和」の詞は、このエイサーを取り巻く物語だというふうに私は解釈しました。

今からマサムネさんが慰めようとしているのは、「虐められている人」です。中学2年生ぐらいの男子生徒を想定してみました。彼は現在進行形でいじめに遭っているので、笑顔になれません。一日中、暗い顔をしています。

一方で、「愛しいあの娘」とは誰の事かと言うと、沖縄のエイサー踊りのサークルにいる女性を想定しているんじゃないかなと。エイサーってテンションが上がるので、自然と笑顔になれます。

人間、感情が行動に現れるとばかり思いがちですが、実は逆もあります。ついついやっちゃう行動に、自分の感情を支配されてしまうのです。

ひとは、悲しいから涙を流すのではありません。涙を流すから悲しくなるのです。誰かが憎いから悪口を言うのではなく、悪口をいうことで誰かが憎くなってしまうのです。下を向くと気分が落ち込みますし、「疲れた疲れた」と言いながら一日中寝ていると、なおさら疲れるのです。これらの行動が習慣化しちゃうと恐ろしいですね。負の感情が、勝手に噴出するようになってしまうのです。

もちろん、逆もあります。エイサーみたいに、笑顔で踊ることで、気分が勝手に楽しくなるのです。

このように、笑顔を作ることで、楽しい時間にしてくれるのが、エイサーなのです。



エライ先生もテレビも 教えてくれないことがある

散らばるカケラ繋げたら 宝の地図になったよ ヘイ ヘイ ヘイ

エライ先生もテレビも、こういう人間の心の動きについては教えてくれません。「踊ればテンションあがるぜ、ウェーイ!」っていうコメンテーターいないですよね。

それどころか、彼らは、眉間にしわを寄せて、芸能人の不倫問題を徹底討論するのがお仕事なのです。世の中というのは、ちょっと悪いヤツというのを常に求めています。何か悪さをしたりとか、変わったことをしたりした人間を、みんなで虐めるためです。その虐めを、賢しら顔で行うのが、エライ先生という職業なのであり、テレビという媒体なのです。

なので彼らにとっては、「そんなの気にしなくていいじゃん、踊ろうぜ、ウェーイ!」って世の中になっては、都合が悪いのです。大人たちは、幸せになる方法を隠しているのです。

でも、幸せのヒントというのは、自分の身の回りに散らばっています。エライ先生やテレビの言うことに惑わされずに、楽しそうにしている人のまねをする。こうすることで、幸せのヒントが徐々に集まってきて、幸せという名の宝の地図が手に入るのかもしれません。

エライ先生の言うことをきいて芸能人の不倫問題に詳しくなるより、幸せな人のまねをするほうが、幸せになれると思うのです。



あふれ出すような 強い気持ちを

こめて歌おうよ 風に逆らって Wooとばせ

エイサーを踊っている様子です。「あふれ出すような 強い気持ちをこめ」ることが大事なのです。

こうすることで、悪い気を「とばせ」ると思います。身体を動かすことで、うつむいたり、悪いほうに考えたりといった、悪習慣を飛ばしてしまうのです。



腹が減るなら大丈夫 香るナンプラー遠くから

怪しいくらいに純情な 瞳にやられちゃったよ ねえ ねえ ねえ

この「ナンプラー日和」に込められたメッセージというのは、「踊ろうぜ」ということともう一つ、メッセージが込められていると思うのです。

それは、「世界は広いんだぜ」ということです。

マサムネさんが慰めようとしている、虐められている中学2年生男子は、狭い世界でいきているはずです。特に学校にいるうちは、学校が世界のすべてだと思い込みがちです。学校で仲間外れになったら、もう生きている価値がない、と思いがちなのです。会社勤めだって同じです。会社がすべてだと思っているうちは、苦しくてしかたがないでしょう。

でも、エイサーがある沖縄文化は、もともと中国の唐から伝わってきた文化です。その唐は、遊牧民族国家のキルギス、ウイグル、契丹、イスラム国家のアッバース朝と隣接し、この周辺諸国の影響を受けて発展しました。唐の前の時代の隋や漢にはすでに、ローマ帝国との国交をしていたほどなのです。

またナンプラーは、東南アジアでよく使われる調味料ですが、中国の料理人が発明したそうです。ナンプラー開発の背景には、中国の文化圏の巨大さがあったといえるでしょう。

エイサーを踊り、ナンプラーの料理を食べる。この何気ない光景が、実はとんでもなく広い世界に裏打ちされたものなんだよ、というのが、この詞の趣旨なんじゃないかなと、私は思うのです。

学校の、たかだか100人前後の世界に閉じこもっているうちは、この広い世界が実感できないでしょう。100人前後の狭い世界が、世界のすべてだと思い込んでしまうでしょう。そんな狭い世界でいじめられて、絶望しているのは、とてももったいない話です。学校の外にでれば、それこそ、語れないほど遠くまで世界が広がっているのですから。その果てしなく広い世界の向こう側から、ナンプラーは香ってくるのですから。



遠慮はしないで 生まれたんだから

炎になろうよ 考える前に Woo燃やせ

曲がりくねった流れにまかせて

今だけは あれもこれも忘れよう

新しい踊りを発明した

エイサーを踊る人は、綺麗な瞳をしています。踊る、と言うこと以外の邪念を捨てて、踊ることに集中しているのですから。

先ほどの「愛しいあの娘」が、「怪しいぐらいに純情な瞳」で踊っています。「ほら、あの楽しそうな瞳にやられちゃっただろう? ねえねえねえ」と、男子をけしかけています。

「遠慮はしないで 生まれたんだから 炎になろうよ 考える前に」と、エイサーを踊っているマサムネさんは、この男子中学生に語り掛けています。隣で一緒に踊ってくれています。今は身体を動かして、心を燃やすことだけを考えていればいいのです。学校を卒業すれば、もっと広い世界が、彼を待っているのですから。

ナンプラーが、多文化が交流する歴史の大きなうねりの中で開発されたように、エイサーに似た、新しい踊りを発明することだって、これからあるかもしれません。そういえば盆踊りもエイサーも、死者を弔うことを目的としています。そこから派生して、この男子のように、生きながらにして死んでいるような人に活力を与えるような踊りになったら、それは生きている人のための踊りになります。これは、新しい踊りの形になるのではないのでしょうか。踊りには、そんな働きも、確かにあると思うのです。



という感じで解釈してみましたが、いかがでしたでしょうか?

「ナンプラー」と「エイサー」というものから、この物語を組み立ててみました。この二つを深堀りしてみることで、この曲の主張が見えてくるような気がするのです。

でも、詞の中では、直接「これは、こういうことなんです」という解説がほとんどないので、間違っているかもしれません。

この解釈が「当たらずとも遠からず」というラインであると、個人的には嬉しいですね。勇気がもらえます。そんな気がします。

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