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スピッツ「ほのほ」は、寓話北風と太陽説。



こんにちは。八百屋テクテクです。

今回は、スピッツ「ほのほ」について解釈していきたいと思います。

ブログタイトルにもありますとおり、この曲は、寓話「北風と太陽」の話が元になっている詞なのかなと思います。つまり赤い火とは、太陽のことです。

マサムネさんはこの詞のタイトルを、最初は「炎」にしようとしたそうですが、どうもしっくりこなかったので、古い仮名遣いの「ほのほ」にしたそうです。が、ただしっくりこなかったから、という理由のみで変更したとは、どうも考えにくいのです。ほのほ、に変更するということは、古いコトバという、新たなる属性がつけ加えられてしまうからです。

わざわざ古いコトバを使用した、ということは、「これは、古い話がもとになっているんですよ」という意味が込められているんじゃないかと、つい深読みをしてしまいたくなります。

もしそうなら、寓話「北風と太陽」を連想してしまっても、おかしくはないでしょう。

そして、ここからさらに踏みこんでおくとするなら、この寓話の中で北風と太陽は、何をもって争っていたのか、ということです。北風と太陽の話は有名なので、誰もが知っている話ですよね。この話は、旅人のマントを脱がす話なのです。

つまり、君の服を脱がして、裸を見る、というのが、この詞の目的なんじゃないかなと。

あ~いやいや、ちょっと待ってください。逃げないでください。エロい曲だと言いたいわけじゃないんです。裸といっても、本音とか、本心とか、そっち系の話です。裸の心とかいう、比喩です。

かつ、裸の心を眺めるというのが最終目的地ですけれども、その過程において語るべきものがあるというのが、この詞のテーマなんじゃないかなと思うのです。

これは、寓話「北風と太陽」にも通じる話です。彼らは最終的にはどちらがマントを脱がせられるかで競っていて、最終的には太陽が勝ったんですけれども、勝ち負けよりも、太陽はなぜ勝ったのか、そして北風はなぜ負けたのか、が重要なのです。ここが、この寓話のキモとなっているのです。

同じように、マサムネさんは君のマントを脱がせるために、ありとあらゆる手を尽くそうとしています。が、その目的よりも、彼女に対して、どんな言葉をかけているのか、どんな態度で接しようとしているのか。その部分こそが、この詞において最も主題にするべきことなんじゃないかなと、思うのです。

どういうことなのか。歌詞を順番に眺めていきましょう。




みぞれに打たれて 命とがらせて

煤けた街で 探し続けた

崩れそうな橋を 息止めて渡り

「気のせい」の先に 見つけたものは…

ここは、彼女のシーンです。みぞれに打たれて、命とがらせているのは、彼女です。いや、実際に寒冷地で暮らしているわけではありません。彼女を取り巻く環境が、ひどくお寒い状況だと表現したいのだと思います。八百屋テクテクがある福井県もまあまあ寒冷地ですけれども、崩れそうな橋なんてありません。ちゃんと国土交通省が整備してくれています。北海道でも同じだと思います。息を止めてソーッと渡る必要のある橋なんて、実際にはないわけです。

これは、彼女の心の中の状況なのです。彼女の心の中には常にみぞれが降っていて、彼女の心を冷たくしています。そして彼女は、これ以上冷たくならないよう、橋から転落しないよう、ビクビクしながらソーッと歩いているのです。泣き出してしまいたいぐらい、辛い人生なのです。

そんな人生で彼女が必死に探しているのは、マサムネさん、ではなく、別の誰かです。「私を幸せにしてくれる、王子様」であるかもしれませんし、あるいは「理想に向かって走る、キラキラした自分自身」かもしれません。とにかく、今のボロボロの状況を変えてくれる何かがあると信じて、渇望しているという状況なのだと思います。

でも、「気のせい」の先に見つけたものは… と、意味深な「…」がついています。ずっと冷たい場所を歩いてきた状況説明が続いているのに、でも、とか、しかしながら、といった逆説の接続詞がついていないということは、見つけたけれども、ダメだった、ということだと思います。この苦難の先についに発見した男性は、彼女の心を踊らせる「王子様」かと思われましたが、現実は非情にも、まるで王子様のように自分を見せるのがうまいだけのモラハラ彼氏だったようです。あるいは、ついに理想の自分に近づけると思ったけれど、受験とか仕事とかに失敗して、ぬか喜びに終わったようです。



今君だけのために 赤い火になる

君を暖めたい

言葉にすれば 無様なことも

嘘じゃなくなるまで ずっと

そんな君に対して、マサムネさんはどうしたいかと言うと、「赤い火」になりたいと言っています。

ここ、とても表現に苦心した部分だと思うんです。

元ネタのように太陽にしてしまうと、意図が伝わらなくなってしまいます。確かにスピッツファンにとっては、マサムネさんは太陽みたいに偉大なものではありますが、だからといってマサムネさん本人が「俺は太陽だ、どうだどうだ、すごいだろう!」と心が凍えた彼女の前でやりたくはないでしょう。彼女だって、重いマントを脱ぎ捨てて裸の心になってくれないでしょう。

なのでマサムネさんは、赤い火になるのです。彼女に寄り添う、彼女の心だけを暖めるぐらいの熱量の、赤い火になるのです。

これが、「今君だけのために 赤い火になる 君を暖めたい」ということなのだと思うのです。

「言葉にすれば~」も、北風と太陽の寓話になぞれば、「君の裸の心をみたいんだ」ということなんだと思います。今マサムネさんの目の前にいる彼女は、命とがらせて武装しています。自分に近づく人間すべてが敵に見えているのです。そんな彼女に対して「裸の心を見せてちょうだい」と言うのは、無様な話でしょう。彼女にとっては「あ?なめてんのか」と思うに違いありません。でもマサムネさんは、嘘じゃなくなるまで、暖めたいと思っています。



灼熱の道で 空を仰いでる

どこにいるのか 知らないままさ

1番とは異なり、君は「灼熱の道」を歩いています。暑くてたまらない、という状態ですね。

でも、1番の詞が本当に寒い場所での話ではなかったように、「灼熱の道」もまた、君の心の中の話になります。君の心の中が灼熱なのです。灼熱に荒れはてているわけです。

荒れながらも、いるはずのない誰かを探し求めています。王子様は、キラキラした自分は、いったいどこにいるのでしょう?



でも君だけのために 北風になる

ボロボロになりたい

溶けそうな時も 消えそうな時も

その声を聴きたい 君の 君の 君の 君の…

そんな彼女に対して、マサムネさんは「北風」になろうとしています。

寓話「北風と太陽」においては、北風は無理やりマントをはぎ取ろうとしました。このことから、「北風と太陽」を例に挙げる場合、北風は恫喝や暴力に例えられることが多いのです。

しかしながら、ここでの「北風」は、「君だけのため」のものです。荒んだ君の心にどう寄り添うかを考えた時、「北風」になる必要もある、と考えて、ここは北風になったのでしょう。

荒れた人にとっては、太陽は毒になります。五月病の人にとっては、ゴールデンウィーク中の澄み渡った青空を眺めると、より苦痛になるそうです。かわいい子供たちに囲まれて幸せな生活を営む夫婦の姿は、それを渇望しても叶えられない人にとっては、毒でしょう。こんな理想がある、あんな理想もある、全部叶うよ、君ならできるよ、なんてプラスな言葉たちは、人によっては劇物になりうるのです。

こういう心の状態にある人には、この世の残酷さを歌う「北風」の曲のほうが、より心に響くのです。中島みゆきの「ファイト」とか、長渕剛の「とんぼ」が心に沁みるのです。「北風」な曲を聴くことこそ、心の平穏につながるのです。

心が冷えている彼女に対しては、それを暖めるような言葉を。心が灼熱な彼女に対しては、北風を。時には太陽になり、時には北風になって、一緒にボロボロになりながらも寄り添っていく。そんな覚悟を感じます。

なので、マサムネさんは君に寄り添うために、君のの声を聴きたいのです。君の心がどんな状態なのかを聴けば、はたして君が必要としているのは北風なのか、太陽なのか、わかるではありませんか。

このマサムネさんの強い意志と願望が「君だけのために」に込められている、と思うのです。




という感じで解釈してみましたが、いかがでしたでしょうか?

「ほのほ」について調べていたところ、どうもこの曲が収録されているアルバム「スーベニア」は、もともとこの曲がタイトルになる計画だったようです。でも「炎の語感、なんかスピッツがリリースするアルバムとは合ってないな~」ということで、変更されたのだとか。でもアルバムのカラーは赤がメインになっているあたり、「ほのほ」がアルバムの主体にしたいという思惑が伝わってくるようです。

なるほど確かに、私の歌詞解釈が正しければ、「ほのほ」ほど、スピッツが表現したい内容を表している曲はないと思います。時には北風になり、時には太陽になったりして、私たちの疲れた心を癒やしてくれます。なんでこんなにスピッツの曲が、私たちに寄り添ってくれているのかと疑問でしたが、この曲が、その答えだと思います。私たちの心に寄り添うことこそが、スピッツの願いだったからなのです。そういう願いのもとに、曲を作ってくれているから、どの曲も私たちの心に響くんじゃないかなと、思うのです。





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