こんにちは。八百屋テクテクです。
今回は、スピッツ「さびしくなかった」にみる、恋とはなんなのかについて解釈していこうと思います。
この詞は、とてもわかりやすい内容になっております。なので、いままでやってきたような「この意味は、こうだと思います」的な解釈って、必要ないと思います。
これは、「恋におちたことで、寂しくなった人の曲なんだな」ということでしょう。
あっ、「はて? 恋に落ちると、寂しくなるんか? ふつう逆やろ?」と思いましたか?
なるほど、そういう人もいるかと思います。
ここではむしろ、「さびしくなかった」の曲中での、心情について解説していったほうが、より、「さびしくなかった」の内容に迫れそうですね。
というわけで、今回はそういう方針で、歌詞を詳しく眺めていきたいと思います。
さびしくなかった 君に会うまでは
生まれ変わる これほどまで容易く
君に会うまではさびしくなかった、からはじまるこの曲。君に会うまでの自分は、いったいどういう人物だったのでしょう? という部分から想定してみると、より詞の輪郭がくっきりしてくると思います。
女の子は特にかもしれませんが、常にお友達と一緒にいる人っていますよね。登校中も下校中も、ずーっと一緒。一緒に昼ご飯を食べ、一緒にトイレにいき、恋人ができたとしても、ダブルデートとかして、その間ずーっと女子同士でしゃべっているような人。一緒に夜中ずーっとラインしている人、ツイッターでリプしている人、電話している人……。こういう人には、君に会う前の状態である「さびしくなかった」状態は、ちょっと想像しにくいかもしれませんね。
逆に、男性で、ある程度の年齢に達している人だったら、この感覚がわかる人も多いかもしれません。学校を卒業して会社員になると、ひとりで過ごす時間が増えるでしょう。学校では親しくしていた友人たちも、話が合わなくなって、次第に疎遠になっていくことでしょう。逆に同じ職場で働く人同士のほうが、仕事の話題で盛り上がることができたりして。でもやっぱり職場の人間関係ですから、昔の友人のようにバカやったりはできなくて、一歩引いた大人として、薄く広くつながっていくわけです。相手に家族ができて、子供がいれば、当然踏み込んでいきにくくなるでしょう。乳児を抱えた親に、「おい、野球やろうぜ」とは、気軽に誘えないわけです。
この、薄く広くなった友人たちにすら家族ができて、気軽に遊びに誘えなくなり、ひとりキャンプでもして時間を潰している社会人男性、を、この詞の主人公に見立てると、かなりいい感じなのではないのでしょうか。ひとりで遊ぶことに慣れてきて、「次の休日はどの山に登ろうかなぁ、そうだ次の給料が出たら、気になっていたあのキャンプ道具を買ってみよう、少し高いけど便利そうだし。よーしやる気がでてきたぞ」だなんて、目標を見つけてイキイキと楽しんでいる男性。
この男性が、もし、「ひとりキャンプは寂しいよぅ……」だなんて言い出したら、どうしましょう? なにがあったのだ、と心配になりますよね。
理由を探していたんだけど 影踏みみたいで
ルーティンの中ヒマをつぶす それもありだった
眼差しに溶かされたのは 不覚でした
かき乱されたことでわかった 新しい魔法
ルーティン、という言葉は、日常的であることを表すのに適した言葉だと思います。社会人ならよく使う、ビジネス用語でもありますし。ビジネス用語であるがゆえに、日常の無機質さ、無味無臭さを表しているともとれます。
このルーティンのすぐ後にでてくる「魔法」という言葉。これは完全に対比になっています。日常の中に出現した、非日常。これはマサムネさんの優れた技法ですね。
ずっと若いころは「人間の生きる理由って、好きな人を幸せにすることだ」だなんて、なんとなく考えていた。けれども日常で出会う人といえば、社会人として感情を表にださずに機械のように働く人ばかり。なので、恋愛感情でも見せようものなら、「いやお前、仕事でそれはないわ……」なんて言われる始末。かと思えば先輩に連れていかれた合コンとかで女の子と話をすれば、「え、何? おまえ金持ってんの? いや~ん素敵、私と結婚して楽させてや~?」とダルがらみされる。
その、社会人としての経験のおかげで、恋愛に関しては、ドライにならざるをえなかった。誰になにを言われても、心を閉ざすしかなかった。スマートで無難なお断り方はなんだろう? とばかり考える日々が続いた。
こういう日々が「影踏み」と表現しているのだと思います。相手の実体には触らず、影だけの見て話をしている。みんなそういう状態になって、はじめて社会はうまく回っているのです。「誰かを幸せにして生きるのが、自分の生まれた理由だと思うので、誰かいい人がいれば…。」とは、思っているけれど、影踏みみたいな手ごたえのない日々で、恋愛にふさわしい相手を見つけられずにいる。
そしてルーティンの中に楽しみを見つけて生きていくようになった主人公。「まぁ、生まれた意味なんて、そんなに必死になって探してもしょうがないしな」という気分になってくる。まわりで恋愛トラブルとか、家庭のトラブルとかを見聞きしているうちに、「運命だと思って結婚した人でも、そうなるんだよなぁ」だなんて、恋愛にたいする情熱も薄れている。相対的に、ソロキャンプ楽しいなぁ、と、ひとり遊びの楽しさに目覚めつつある。この詞は、こういう状態の人を想定しているのだと思います。
でも、そんな日常を送っている彼に、非日常が突如としてやってきます。
何かというと、「眼差しに溶かされた」のだそうです。非合理的な話ですよね。ルーティンという合理的なルールの中でいきてきた彼の中に、突如として現れ、彼の心をかき乱していったもの。まったく新しい魔法としか、いいようがないですね。
「職場の人やお取引先様に恋をするなんて、社会人としてやっちゃいけないヤツだわ」とか「先輩に連れられた合コンとかは、その場で楽しくおしゃべりするキャラが欲しいだけだろうから、その役に徹するべき。ましてや先輩が狙っている相手と仲良くなったりなんてしたら、今後の仕事に支障がでる。逆に好きでもない相手にダルがらみされたとしても、先輩の顔を立てて、上手く切り抜けないとな…」とか論理的に社会的に賢く立ち回っていたはずの彼のこころを、一瞬でかき乱し、ぶち壊していく魔法。
その場面に、彼は出くわしちゃったわけですね。
さびしくなかった 君に会うまでは
ひとりで食事する時も ひとりで灯り消す時も
いつか失う日が 来るのだとしても
優しくなる きらめいて見苦しく
生まれ変わる これほどまで容易く
ひとりキャンプしている中、彼はぼーっとしています。
ひとりで食事する時も、ひとりでランプの灯りを消す時も。せっかく遊びにきたのに、「この楽しい場に、彼女がいたならなぁ…」なんて想像しています。
その次の「いつか失う日が来るのだとしても」の部分。失うものとして何を想定するかで、「彼は彼女と付き合っているのか」「付き合っていないのか」が分かれます。
失うことが彼女そのものだとすると、彼女が死ぬまでということになります。あるいは、自分が彼女に振らるか、彼女を自分が振るか、ということになります。
でも、これはちょっと想定しにくいんですよね。もし彼女自身を失うことを想定していたとしたら、すでにこの時点で彼女が自分のモノになっているということになります。ということは、現時点ではそんなにさびしくないということになってしまいます。メタ的な話になってしまいますが、この詞における寂しさが、そこまで大きくないことになります。
この詞における寂しさを、より大きなものにしようと思ったら、彼女は、まだ彼のモノになっていないというふうにしなくてはいけません。付き合ってもいない状態なのです。
とすると、この「彼女と付き合っていない」のに、彼が失うものといえば、何でしょう?
それは、彼女に対する淡い恋心だと思います。
恋心だったとて、もし彼女に自分以外の恋人ができたり、結婚したよ、なんて報告が来たとしても、社会で辛い思いをしながら働いている男性だったら、優しくなれるだけの心の余裕は持ち合わせいるでしょう。ちょっと負け惜しみみたいな見苦しさはあるでしょうけれども。逆に、彼女に振られたり、亡くなったりしていたら、きらめいて優しくすることはできないと思います。
こういう、「相手に迷惑になるかもしれないから積極的には向かっていかないけれど、でも恋しいなぁ」と思っている男性の心境。
「恋をしたことで、ひとりの時間がさびしくなったけれど、でもそれだけの心の栄養をもらったよ。ありがとうね」という心境。
これが、この詞の言いたいことなのだと思います。
鈍感は長所だと笑う 傷を隠して
草原が長くなだらかに そんなイメージを持って
離れていても常に想う 喜ぶ顔
以前とは違うキャラが行く しもべのハート
この彼は、もともと、さびしくなかった人、つまり、恋愛も含めた人間関係をある程度器用に立ち回れる人、だったわけです。誰かから「付き合って欲しいな~」とか思わせぶりなことを言われたとしても「ううーん? 付き合うって、どこに?」みたいな、トンチンカンな会話をあえてすることで、乗り越えてきたのだと思います。このように、社会の猥雑な人間関係をうまく処理するためには、鈍感力が求められるわけです。まさに、鈍感が長所なのです。
そんな彼が、見境がなくなるほどに強烈に恋をしてしまった相手に対して、どうふるまっているかというと、やっぱり、同じように、鈍感に振舞っている様子がみてとれます。社会人としてのルールを逸脱することなく、あくまでも冷静に、鈍感に。
彼女に大きな爪痕を残された、心の傷を隠して、「いやぁ僕って鈍感なんで、恋愛とかよくわかんないっすね」と、当の彼女を目の前にしていたとしても、平静を装わなければいけません。だって彼は、立場ある、立派な社会人なのですから。
草原には、地平線の向こうまで何もありません。彼はいままで、こういう草原をひとりで歩いていました。でも苦には思いもしませんでした。そこが何もない草原だなんて、想像すらしなかったからです。
でも、彼女という存在を認識してから、今までの自分の人生、そしてこれからの自分の人生が、何もない草原だということに気が付きました。孤独で乾燥している場所。誰かと一緒にいなくてもいいと思っているうちは苦ではないけれど、誰かと一緒にいたいと意識したとたんに苦になる。それが、長くなだらかに続く草原、という場所なのだと思います。
「しもべのハート」の部分もまた、以前のこの男性には見られなかった部分だと思います。自立したいい大人であるこの男性は、会社と雇用契約を結び、給料の分だけ労働を提供しておりました。社会人として、理不尽な要求にはノーといい、利益にならない部分のリストラをやってきました。こういう、かけたコストに見合う成果がでるかをちゃんと計算して仕事をするのが、社会人であるといえるでしょう。
ところが、ちゃんとしているはずの男性が、こと意中の彼女のことになると、この計算をすっとばすようです。どんなにコストがかかろうと、「彼女のためになることなら」どんなことでもやるつもりでいます。まともな社会人の行動とは言えませんね。まさに「しもべ」です。
さびしくなかった 君に会うまでは
ひとりで目を覚ます朝も ひとりで散歩する午後も
和みの季節よ 長く保てよと
強く祈る わがままに青白く
生まれ変わる これほどまで容易く
ここでも、「彼女のことを想って幸せな気分でいられる時間が、そんなに長いものではない」ということが「和みの季節よ 長く保てよと 強く祈る わがままに青白く」の部分で示唆されています。もし彼女との幸せな時間を過ごしたいなら、彼女にアタックして付き合ってもらって、結婚して、死ぬまで一緒にいればいいだけの話です。でも、そんなアクティブさは持ち合わせていません。彼は、青春ど真ん中の少年ではなく、成人して社会的な経験を積んだ社会人なのです。
彼にとっては、彼女との幸せな時間は、ひとりで目覚める朝とか、ひとりで散歩する午後とか、そういう時間に「彼女が隣にいたら、きっとこんな会話をしているんだろうなぁ」というものなのでしょう。楽しくて、さびしい時間です。
この、彼にとっての楽しくてさびしい時間は、彼女に対する恋心が持続している間だけです。勝手に恋をしているからこそ、「彼女、お願いだから、できるだけ長くぼくの理想でありつづけてね。できるだけ長く、ぼくに恋をさせ続けてね」と強く祈ることが、わがままにもなるのです。
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