少年は、歩いた。
岩倉さんは、そこに留まっている。
背を向けた二人の距離が、ゆっくりと開いていく。振り返ることもなかった。
別れてしまえば、たぶん、もう二度と口を聞くことはないだろう。
少年には、表情がない。
自分は、優しい人間などではなかった。
上辺だけの優しさ。上辺だけの親切。心の奥底では、誰よりも自分が大事で、他の誰かが傷ついても、自分だけは傷つきたくない、自分勝手な人間。だから結局、誰とも心の通信ができないまま、ひとり寂しく生きていかなくてはいけないのか。
夏の暑さもまた終わっていないのに、寒気さえ覚えた。
ふと顔を上げると、暗く錆びついたシャッター通りに、明かりが灯っている場所があった。
なぜか、光が、温かい、と感じた。
その照明には、温度があるように思えた。
この街の誰もが失った人間の体温を、その店だけが持っているような、そんな気がした。
『風待くだもの店』の看板の横を通り抜けて、果物たちの横を少しだけ奥に進んだ。
少年がどんな気持ちを抱えていようと、お店の中は、いつもの通りの華やかさだった。
お店の中は、竜宮城の玉座のようで、もちろん、竜宮城の主も、ちゃんとそこにいてくれていた。
「お店に来たかったけど、ずーっと閉まってたので、来られませんでした」
「ごめんね。不定休なの」
「不思議ですね、何か」
「どうして、そう思うの?」
「だって……」
いつも閉まっているけれど、どうしても風待さんに会いたくなった時には、必ず開いているから。
と答えようとしたけれど、そこまでは言えない。
言えなくて、口ごもったけれど、ふと風待さんを見ると、穏やかに笑っている。
まるで、少年の言おうとしていることが、伝わっているかのようだった。
「どうぞ」
促されるままに、少年はカウンターに座った。
カウンターの向こう側には、タルト生地が鎮座していた。クリームを流し込んで、その上にフルーツを乗せる工程の途中だった。風待さんは慣れた手つきでフルーツをカットし、タルトに並べていく。その後、すぐに六等分にカットする。
「美味しそうなタルトですね」
何か言葉をかけなくては、という思いにかられて、少年は言葉を発する。心の冷えをできるだけ悟られないよう、できるだけ自然な声を出したつもりだった。
「そうだね。美味しいと思う。自信はあります。食べていく?」
「いいんですか?」
「お金が、かかります」
「いくらですか?」
「うーん、どうしようかな?」
風待さんには、少年の気持ちが乱れていることなんか、とっくにバレていたらしい。風待さんも、探るように会話をしようとしたせいか、不明瞭なことを口走っている。
タルトの金額は、決まっているのか、決まっていないのか。
ただ、風待さんは、少年に優しく接してくれようとしているのだけは、少年に伝わってくる。
「じゃあ、コーヒー付きで、千円。どう?」
「わかりました」
「本当に? 大丈夫?」
「どうしてですか?」
「だって。この間は、300円でも大金だって、顔をしていたから」
「この間は、ぼくは子供だったので、300円が大金でした。でも今は大人なので、千円のセットを貰います」
自分で言ってて、またやってしまった、と重たい気持ちになった。なんて僕は、バカなんだろう。なんでこんな、子供じみたことしか、言えないのだろう?
こういう時、どう答えるのが正解なのか、まったくわからない。でも、その言葉は、正解じゃないのだけは、嫌というほどわかる。
風待さんは、明るく笑った。
「そうなんだ。大人になったんだね。おめでとう。じゃあ、二千円払ってもらおうかな。このタルトセットは、大人料金だと二千円だからね」
いや、あの、と口ごもる少年を見て、風待さんは、また笑った。
「ウソだよ。大人料金なんてないの。それに、このタルトは売り物じゃないから。そんなに肩肘を張らなくても、大丈夫だよ」
風待さんは、少年の緊張が解けるよう、誘導してくれていた。
でも、少年には、それに気がつかない。少年はまた自己嫌悪に陥った。自分に対する、どうしようもない気持ちが、たかが千円のタルトに翻弄されたと思った。
でも、不貞腐れた気持ちを、素直に表に出すわけにいはいかない。風待さんには、なんの罪もない。
でも、そんな少年の気持ちを知ってかしらずか、風待さんはタルトとコーヒーのセットを用意しながら、
「ねえ君は、恋をしたことはあるの?」
なんて、気持ちを揺さぶるようなことを聞いてくる。
「ないです」
迷った末、動揺をひた隠しにして、少年はそう答えた。
「そんなことはないでしょう? 恋のひとつぐらい、心当たりがあるでしょう?」
「ないです」
「ふーん。てっきり、大人になったと言ってたから、そういう関係になった子がいるのかなと思ったんだけど」
「大人の定義は、いろいろあるでしょう。風待さんの言うように、いい恋愛をして大人になる場合もあれば、恋愛なんていらない、って悟ることもまた、大人になる、っていうことだと思いますし」
「恋をしたいとは、思わないの?」
「…………」
つらい。
我慢して、なんとか愛想のいい表情を顔面に張り付けていたけれど、頬のあたりが硬くなりはじめた。
気を抜けば、能面みたいな顔になってしまう。冷えた心が、表まで出てきそうになる。
「恋は、いずれは、したいとは思いますが、今はいいかな、と思います」
「そっか」
「だって、今は受験がありますからね」
「ふぅーん。でも君の服から、女の子の匂いがするね」
「えっ」
「ごめんね。あのね。君、さすがに可哀そうだし、気が付いてなさそうだから言うね。君、今さっき、女の子を泣かせてきたでしょう。そんなに顔に痣をつけて、暗い顔をして、女の子の匂いをさせていれば、何があったのかなんて、誰でもわかるの。文字通り、顔に書いてあるもの」
間抜け。
ここに、とんでもない大バカ者がいた。
いままで、岩倉さんに殴られたことなんて、忘れていた。あまりにも心が冷えすぎていて、気にもならなくなっていた。
言われてはじめて、顔にできた痣がジンジン痛み始めた。顔が暑く真っ赤になって、血液がジンジンしはじめた。
今まで、いったい何を勉強してきたのだろう? こんなことにも気が付かないで。たぶん、この瞬間、世界で一番の愚か者だ。
岩倉さんには手のひらで殴られたけれど、風待さんには、言葉で殴られた。いや自分で勝手に自滅しただけで、風待さんは特になにもしていないのだけれど、でも、風待さんに結果として殴られた形になった。そして、風待さんの痛みは、岩倉さんの痛みよりも、何倍も強かった。
気分的には、岩倉さんと別れた直後が一番底辺だと思っていたけれど、さらに底があったなんて、のんびり生きていた昨日までは、想像もしなかった。
続きは、こちら。
美味しい果物はこちら。
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