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風待くだもの店~その9~



少年は、歩いた。

岩倉さんは、そこに留まっている。

背を向けた二人の距離が、ゆっくりと開いていく。振り返ることもなかった。

別れてしまえば、たぶん、もう二度と口を聞くことはないだろう。

少年には、表情がない。

自分は、優しい人間などではなかった。

上辺だけの優しさ。上辺だけの親切。心の奥底では、誰よりも自分が大事で、他の誰かが傷ついても、自分だけは傷つきたくない、自分勝手な人間。だから結局、誰とも心の通信ができないまま、ひとり寂しく生きていかなくてはいけないのか。

夏の暑さもまた終わっていないのに、寒気さえ覚えた。

ふと顔を上げると、暗く錆びついたシャッター通りに、明かりが灯っている場所があった。

なぜか、光が、温かい、と感じた。

その照明には、温度があるように思えた。

この街の誰もが失った人間の体温を、その店だけが持っているような、そんな気がした。

『風待くだもの店』の看板の横を通り抜けて、果物たちの横を少しだけ奥に進んだ。

少年がどんな気持ちを抱えていようと、お店の中は、いつもの通りの華やかさだった。

お店の中は、竜宮城の玉座のようで、もちろん、竜宮城の主も、ちゃんとそこにいてくれていた。


「お店に来たかったけど、ずーっと閉まってたので、来られませんでした」


「ごめんね。不定休なの」


「不思議ですね、何か」


「どうして、そう思うの?」


「だって……」


いつも閉まっているけれど、どうしても風待さんに会いたくなった時には、必ず開いているから。


と答えようとしたけれど、そこまでは言えない。

言えなくて、口ごもったけれど、ふと風待さんを見ると、穏やかに笑っている。

まるで、少年の言おうとしていることが、伝わっているかのようだった。


「どうぞ」


促されるままに、少年はカウンターに座った。

カウンターの向こう側には、タルト生地が鎮座していた。クリームを流し込んで、その上にフルーツを乗せる工程の途中だった。風待さんは慣れた手つきでフルーツをカットし、タルトに並べていく。その後、すぐに六等分にカットする。


「美味しそうなタルトですね」


何か言葉をかけなくては、という思いにかられて、少年は言葉を発する。心の冷えをできるだけ悟られないよう、できるだけ自然な声を出したつもりだった。


「そうだね。美味しいと思う。自信はあります。食べていく?」


「いいんですか?」


「お金が、かかります」


「いくらですか?」


「うーん、どうしようかな?」


風待さんには、少年の気持ちが乱れていることなんか、とっくにバレていたらしい。風待さんも、探るように会話をしようとしたせいか、不明瞭なことを口走っている。

タルトの金額は、決まっているのか、決まっていないのか。

ただ、風待さんは、少年に優しく接してくれようとしているのだけは、少年に伝わってくる。


「じゃあ、コーヒー付きで、千円。どう?」


「わかりました」


「本当に? 大丈夫?」


「どうしてですか?」


「だって。この間は、300円でも大金だって、顔をしていたから」


「この間は、ぼくは子供だったので、300円が大金でした。でも今は大人なので、千円のセットを貰います」


自分で言ってて、またやってしまった、と重たい気持ちになった。なんて僕は、バカなんだろう。なんでこんな、子供じみたことしか、言えないのだろう?

こういう時、どう答えるのが正解なのか、まったくわからない。でも、その言葉は、正解じゃないのだけは、嫌というほどわかる。

風待さんは、明るく笑った。


「そうなんだ。大人になったんだね。おめでとう。じゃあ、二千円払ってもらおうかな。このタルトセットは、大人料金だと二千円だからね」


いや、あの、と口ごもる少年を見て、風待さんは、また笑った。


「ウソだよ。大人料金なんてないの。それに、このタルトは売り物じゃないから。そんなに肩肘を張らなくても、大丈夫だよ」


風待さんは、少年の緊張が解けるよう、誘導してくれていた。

でも、少年には、それに気がつかない。少年はまた自己嫌悪に陥った。自分に対する、どうしようもない気持ちが、たかが千円のタルトに翻弄されたと思った。

でも、不貞腐れた気持ちを、素直に表に出すわけにいはいかない。風待さんには、なんの罪もない。

でも、そんな少年の気持ちを知ってかしらずか、風待さんはタルトとコーヒーのセットを用意しながら、


「ねえ君は、恋をしたことはあるの?」


なんて、気持ちを揺さぶるようなことを聞いてくる。


「ないです」


迷った末、動揺をひた隠しにして、少年はそう答えた。


「そんなことはないでしょう? 恋のひとつぐらい、心当たりがあるでしょう?」


「ないです」


「ふーん。てっきり、大人になったと言ってたから、そういう関係になった子がいるのかなと思ったんだけど」


「大人の定義は、いろいろあるでしょう。風待さんの言うように、いい恋愛をして大人になる場合もあれば、恋愛なんていらない、って悟ることもまた、大人になる、っていうことだと思いますし」


「恋をしたいとは、思わないの?」


「…………」


つらい。

我慢して、なんとか愛想のいい表情を顔面に張り付けていたけれど、頬のあたりが硬くなりはじめた。

気を抜けば、能面みたいな顔になってしまう。冷えた心が、表まで出てきそうになる。


「恋は、いずれは、したいとは思いますが、今はいいかな、と思います」


「そっか」


「だって、今は受験がありますからね」


「ふぅーん。でも君の服から、女の子の匂いがするね」


「えっ」


「ごめんね。あのね。君、さすがに可哀そうだし、気が付いてなさそうだから言うね。君、今さっき、女の子を泣かせてきたでしょう。そんなに顔に痣をつけて、暗い顔をして、女の子の匂いをさせていれば、何があったのかなんて、誰でもわかるの。文字通り、顔に書いてあるもの」


間抜け。

ここに、とんでもない大バカ者がいた。

いままで、岩倉さんに殴られたことなんて、忘れていた。あまりにも心が冷えすぎていて、気にもならなくなっていた。

言われてはじめて、顔にできた痣がジンジン痛み始めた。顔が暑く真っ赤になって、血液がジンジンしはじめた。

今まで、いったい何を勉強してきたのだろう? こんなことにも気が付かないで。たぶん、この瞬間、世界で一番の愚か者だ。

岩倉さんには手のひらで殴られたけれど、風待さんには、言葉で殴られた。いや自分で勝手に自滅しただけで、風待さんは特になにもしていないのだけれど、でも、風待さんに結果として殴られた形になった。そして、風待さんの痛みは、岩倉さんの痛みよりも、何倍も強かった。

気分的には、岩倉さんと別れた直後が一番底辺だと思っていたけれど、さらに底があったなんて、のんびり生きていた昨日までは、想像もしなかった。


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