少年は、悩んでいる。
たぶん、この少年がここまで悩んだのは、生まれてはじめてのことだった。
悩みは、ひとを大人にする。大人になりたくなくても、ならないわけにはいかない。
「あのさ、岩倉さん。さっき、誰と恋愛しようが、自由のはず、って言ったよね。今は、それも変わらない?」
「えっ。それは……」
岩倉さんは、上目遣いで少年をみる。うまく場を取り繕う言葉を、探っているようだった。
「ううん。私、気が付いた。今はもう、坂谷しかいないよ。坂谷のことが好き。他は、どうでもいい」
彼女は、すがるように言った。
少年は、違う、と思った。風待さんの「好き」の正直さに比べて、岩倉さんの動機の不純さはどうだろう。風待さんの「好き」は、梅にまっすぐに向き合っているのに対して、岩倉さんの「好き」という言葉は、まっすぐ自分のほうに向いていないのが、わかる。
でも、それを言っても、岩倉さんには通じないということもまた、わかる。
「そっか。ぼくは、でも、誰と恋愛しようが自由、っていうのは、当たっていると思う」
「えっ」
「恋愛ってさ、心の通じ合うパートナーを探す行為だろう? より良い相手を探すためにも、もっと多くの恋愛をするべきだよ。ぼくもそうだし、岩倉さんもね」
「そうかもしれないけれど、でも私は、もう恋愛なんていいの。坂谷さえいれば、それで……」
「ぼくは、きみのパートナーになれないよ」
「どうして?」
「だって、心が通じ合ってないもの」
少年は、身構えていた。少年が何か理由をつけて交際を辞めようとした場合、全力で拒否してくるだろう。
だから、それに備えて防御をしようと思った。心を閉ざして防御をしようとはじめから思ってしまっていた。
「君はいつも、ぼくを責めてたよね。ガキだって。キモイって。ぼくだって、自分のことを、そう思ってた。だから君のために、大人になって、君にふさわしい人間になろうって、付き合ったときに、そう思った。だけど、君に、誰と恋愛しようが自由だ、って言われて、はっとしたよ。ぼくは、自分自身の間違いに気づいた。恋愛っていうのは、本来自由なものだ。ぼくは君に合わせることをやめる。君は、ちゃんと心の通じ合える、大人のひとと恋愛するといい。自由に恋愛して、そういう人を探すといい」
「いや」
岩倉さんは、再び沸騰しはじめた。
「じゃあ私が子供になればいいの? そんなにガキでいたいなら、アンタに合わせて、ガキみたいになってあげるわよ。アンタ、私に言ったよね? 付き合うって。付き合いたいって、自分の言葉にぐらい、責任をとりなさいよ」
「付き合うって、何?」
「はあっ?」
「そうやって、ガキになることが、付き合うってこと? 自分の価値観を下げてまで相手に合わせることが、付き合うことだと、君は思う?」
「何をワケのわからないことを」
「わからないだろうね。僕にもわからないよ。君の、自分勝手な妄想なんて。一緒に住む? カフェを開く? 大人相手に売春をした人間に、そんな明るい未来が、ほんとうにあると思う?」
かちり、と岩倉さんの奥歯が鳴った。腰をひねったと思ったら、その奥から手のひらが、少年の頬に向かってブーンと飛んできた。強烈な音がした。岩倉さんに殴りつけられた教師は、眼鏡を吹き飛ばされたらしい。これを食らったのか、痛かったんだろうな、と少年は、どこか他人事のように考えていた。
不思議と、岩倉さんに殴られた痛みはなかった。すでに少年の心は冷え切っている。凍傷になってしまえば痛みを感じないのは、身体も心も同じなのかもしれない。
「僕は、そんな都合のいい未来は、君にはないと思う。悪いことは悪いとしか考えられない子供だからね。君の人生を切り開く責任は、君にはあっても、僕にはない。僕には、できない」
言いながら、少年は、なんでこんなに酷い言葉が、自分の口からでてくるのか、不思議だった。自分はこんなに冷酷な人間だったのか。いつも他の人に遠慮して、嫌なことも頼まれて、笑われて、それでも耐えてきたのは、いい人に思われたいからではなかったのか。いつかきっと、自分の優しさをわかってくれる、優しい人に出会えるんじゃないか。優しい人を続けていれば、いつかきっと、報われる時がくる。そう思って、言いたいことも言わずに、今まで生きてきた。
それなのに、今はそう思えないでいる。今までの自分が遠くに行ってしまったみたいな、そんな感じがする。自分を客観的に見る、という表現が適切かどうかはわからないけれど、今は自分が、もう一人の自分を真上から見ていて、もう一人の自分の唇から冷酷な言葉が出てくるのを聞かされているような、そんな感じがする。
もう一度、岩倉さんから手のひらが飛んできた。右脚もふわりと上がって、ぼくの脛を蹴飛ばした。痛くなかった。こんなものか、と思った。
「坂谷、なんで、なんで、私を助けてくれないの? 私には、もう何もなくなっちゃったのよ? 可哀そうだと思わないの?」
少年を叩く岩倉さんの手が止まった。少年の肩を掴んで、そのまますがるような体勢になった。
岩倉さんは、青ざめている。焦っている。
彼女の髪から、また、誘うような香りがした。彼女の香りからは、今でも悪意は感じないし、大人のいい香りがすると思ったけれど、でもその香りに誘われてはいけないと、少年は悟った。
彼女の身体が、すぐに抱き寄せられる距離にある。腕を伸ばせば、包んであげられるぐらいの。
でも、腕を伸ばす気分になれない。
手を伸ばすだけで、目の前の女の子を救えるのに、それすらもしない。もしかすると、自分は冷酷な人間だったのかもしれない。嫌われたくないくせに、面倒ごとになると、自分を優先してしまう。そんな自己中心的な人間だったのかもしれない……。そんな自己嫌悪に、少年は襲われた。
何が正解なのか、わからない。少年には、こんな時どうしたらいいのか、判断ができない。
ただ、無性に心が冷めているのだけは、わかる。
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