暗い気持ちで次の日を迎えた少年に、さらなる驚きが待っていた。
岩倉さんが、停学になっていた。
間抜けなことに、それを知ったのは、その日の放課後だった。
前日、先に帰ったことに激怒された少年は、律儀に教室でひとりで待っていた。
でも、待てど暮らせど彼女は来ない。
迎えにいこうにも、迂闊に彼女の教室に顔を出せば、またキモイの合唱が待っているだろう。
なので、動きようもなかった。
「よう、坂谷。どうしたんだ。珍しいな。今日は居残りで勉強か?」
部活終わりのクラスメイトの男子が、教室にぽつんと佇む少年に声をかけてきた。
「ううん……もう、帰るところなんだけど……」
「なんだ? 誰か待ってるのか」
「うん」
「そっか……。ところでお前、ちゃんと返してもらったのか?」
「えっ?」
「数学のノートだよ。岩倉にパクられてただろ」
「えっ、ああ、うん」
「あれから、どうなったんだ」
「うん。ちゃんと、返してもらったよ」
「ああ、そっか。よかったな。それなら、ほんと、よかった。そっかそっか。ヘタすりゃ、返ってこなかったからな」
男子が、ことさらに安堵して、そんなことを言う。だから、
「岩倉さんに、なにか、あったの?」
と聞いてみた。
男子は、仰天したらしい。「はぁっ?」と大きな声を出した。
「今頃、何言ってんだよ! お前、朝のクソみてえな事件、知らないのかよ!」
「何それ?」
「うちのクラスだって、とくに女子なんか、朝からずっとその話題ばっかりしてたじゃねえか」
「別のクラスの騒動なんてわからないし、女子同士の話なんて、普通聞いてないよ」
男子は、なんだこいつは……、という顔をした。この環境、この雰囲気にあって、この騒動を知らない人間がいるということが、この男子には信じられなかった。騒動をみてなくても、女子の会話を盗み聞きしなくても、どこからともなく耳に入ってくるはずだった。
「お前な、前から思ってたけど、無関心もいい加減にしたほうがいいぞ。女子の会話を盗み聞きしろ、とは言わねえけどよ、ちょっとは会話に入ってこいよ」
「岩倉さん、どうしちゃったの?」
「パパ活だよ」
「パパ活って?」
「売春」
「売春、って?」
「おいっ! お前、俺に、売春の説明まで、させるつもりかよ」
「いや、だって……」
はあ……しょうがねえな、とため息をついて、男子は、少年に、朝の事件を解説しはじめた。
「といっても、俺も騒動自体は見てねえんだけどさ」
と前置きをしたが、時間経過によって、その場にいた全員の証言が纏まっていた。そのため、男子の話した朝の事件の内容は、ほとんど完璧な再現だった。
朝のホームルーム直前、岩倉さんが所属するBクラスに、何人かの教師が入ってきた。
「今から名前を呼ばれた生徒は、至急、会議室に来なさい」
三人の名前が挙がった。全員女子だった。その中に、岩倉さんの名前もあった。
名前を呼ばれた全員は、なぜ呼ばれたのかを瞬時に悟ったらしい。
同時に、反発した。
「もうすぐ授業でしょ。後にしてください」
「いいから、来い」
「嫌です!」
教師は、ひとりの女子の腕をつかんで、無理やり立たせようとした。女子は発狂した。
「痴漢! 痴漢! 助けて!」
声にならない声を出して、必死に抵抗する女子。自分の机はもちろん、前後左右の生徒の机までひっくり返して、無茶苦茶にした。
手が付けられない、と判断して、教師のひとりは、職員室に電話をして応援を呼んだ。
そのすきを狙って、女子三人は教室から逃走を図った。それを止めようとした教師の頭を、椅子で殴りつけた。教師のかけていた眼鏡が吹っ飛んだ。扉のガラスも割れた。
その間もこの女子たちは、「痴漢! 痴漢!」と叫んでいた。
Bクラスの男子たちは、あまりの出来事に、ただ茫然と成り行きをみているだけだった。
暴れる彼女たちの前に、勇敢に立ち向かったのは、このクラスの別の女子たち数名だった。
「アンタたち、いい加減にしなさいよ! 売春してたくせに、見苦しいわよ!」
この一言で、さらに発狂した女子三人は、顔を真っ赤にして女子たちを殴りつけた。
でも女子たちはそれ以上に、この女子三人を殴りつけた。
どうも、この三人が売春をしていたのは、Bクラスの女子たちの間では周知の事実だったらしい。ばかりか、この女子三人は、ほかの女子に対して、
「私たちは魅力的だから、大人の男と付き合えるしお金も貰える。アンタたちは、誰とも付き合えないブス」
という見下しを、日ごろからやっていたらしい。堪りかねた女子たちの鬱憤が、ここで爆発した。
こうなってしまえば、もうその場にいる先生だけでは止められない。
ほかの先生が到着するまでの間、Bクラスは狂暴が支配した。
事態が収束して、女子三人が連行されていった後は、教室の中はぐちゃぐちゃで、倒れていない机のほうが少なかった。
救急車とまではいかなかったけれど、保健室がBクラスの生徒でいっぱいになった。
「というわけで、売春容疑で三人が連れていかれて、その後戻ってこなかった。停学だそうだ」
「停学か」
「停学、っていうのは、まだ決まった処置じゃないみたいだぞ。退学になるかもしれない。ってか、ほぼ退学だろうな」
「そっか……」
「だから俺は言ったんだよ。ノート返してもらってよかったな、って。あのまま岩倉が学校に来なくなってみろ。お前のノート、一生返ってこなかったよな」
ははは、と男子は笑ってみせたが、少年の顔色が冴えないのをみて、首をすくめた。
彼には、少年の顔色が悪い理由など、知る由もない。
男子が去った後も、少年は、ぼーっと、教室に残り続けた。
外はすでに薄暗くなっている。
「岩倉さんに、世界史のノート、返してもらわなくちゃ……」
暗がりの空を仰いで、少年は、ひとりで呟いた。
少年の想いは、誰にも知られることなく、この闇に溶けてなくなっていくようだった。
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