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生贄になった人~本当は怖い福井県~



こんにちは。八百屋テクテクです。

今回は、福井市森田地区に伝わる人柱事件について語っていこうと思います。

人柱とは、日本古来より伝わる風習で、人間を生かしたまま土中に埋めたり水中に沈めたりすることを指します。人間を生贄として神に捧げることで、倒壊や洪水などの災害を防ぐことを祈願するのです。

寛政元年。今から200年ほど前の江戸時代の話です。九頭竜川に隣接している、現福井市森田地区では、九頭竜川決壊による洪水により、度重なる被害に見舞われていました。

洪水といっても、今の、都市環境が整備された市街地に住む私たちが想像できる洪水とは、ずいぶん性質が違うものでした。

今のように堤防や排水がちゃんとしているわけでもないので、激しい濁流により岸壁が削られ、地面の低い場所を求めて水が無限に暴れまわるのです。その結果、川の形が変わってしまうこともありました。森田町史によれば、寛政元年に起こった九頭竜川の洪水では、森田町を分断し、春江に向かって流れていく川ができたそうです。今まで暮らしていた場所が、ある日を境に、川になってしまったのです。

河合寄安町という名前の町が森田にあります。現在森田に住んでいる住民なら、この地名を不思議に思うのではないのでしょうか。「河」という字はおおきな川を表すのですが、大きな川など周辺には存在していないからです。でも、昔は確かに「河」だったので、この地名になったのです。河合寄安町は川底にあり、人の住めない地域だったのです

このように森田町は、町として成り立った時から、洪水との戦いの歴史でした。近代式の、コンクリート製の堤防ができあがるまでは、しょっちゅう決壊しては、被害をもたらしていたのです。

この当時、大自然の驚異を鎮めるには、神に祈るしかありませんでした。なので、「人柱」を立てることになりました。

選ばれた人間は、儀礼に従って、生きたまま土の中に沈められたのです。


さて、人柱には、主に2種類の性格があることはご存じでしょうか?

それは、自分で進んで生贄になるタイプと、他人から強制されてなるタイプです。

前者には、徳の高い僧侶などが、災害に苦しめられている住民たちを憐れんで、自らが生贄となる事例があります。

後者には、「通りがかった人を捕まえて生き埋めにする」という殺人事件タイプとか、「金銭や、子孫の栄達を条件として生き埋めになる」という取引タイプとか、「住民に災害の全責任を押し付けれられて、責任をとらされる」という責任タイプとか、状況に応じていろいろありました。


福井市森田地区に伝わっているのは、殺人事件タイプと思われます。占いに従って決行する日を定めて、「その日にこの通りを一番最初に通った人を生贄にする」などといった取り決めをします。そして、それを知らずに通りがかった行商人などを待ち構えて、住民全員で捕らえるのです。どうも森田地区の人柱になっている人は、森田とはかかわりの薄い、遠くからやってきた行商人だったようです。

この行商人を、森田地区の住民は、生き埋めにしました。

人柱にすることで、災害の根絶を図ったのです。

私たち森田地区の住民が今、九頭竜川の洪水に脅かされることなく、生活を安んじられているのは、出身地不明の、見ず知らずの方のおかげなのかもしれません。




この話を聞いて、どう思いましたか?

「森田地区の住民は、なんで野蛮なんだ!」と思いましたか?

たしかに、野蛮だと思います。迷信のおおい時代のことです。迷信に従ってしまう、心の弱さが、この人柱事件を招いてしまったのです。




ところで、我が国における、近年の自殺者は1年間に約2万人おります。これだけでも大変な数ですが、実はこれは正確な数字ではないと指摘されています。

自殺者として計上されるには、遺書など、明確に「自殺だ」と判断される根拠が必要です。遺書がない場合の自殺は、たいてい不審死となります。原因がわからないから、ということです。

病死や事故死、事件に巻き込まれたことでの死亡ではない、死亡原因のわからない不審死は年間約15万人とされています。

また、中高生のいじめを苦にした自殺は、中高生の死亡者数全体の0.3%となっています。じゃあ、なんの割合が一番多いのかというと、不審死です。

何が原因か、よくわからない死が、現代日本において、これだけあるということです。

でも、特定はできなくても、想像はできます。他殺でないということは、自殺です


自殺は、何か困難に直面した際、「死んだ方がマシだ」「死ぬしかない」となった場合に、起こりうることです。

人柱の例にあった高僧のような、「この土地の住民の役に立とう」といった、信仰心が高じたことによる自殺は、無宗教の現代日本においては、かなり数が少ないと思います。「自分で進んで生贄になるタイプ」は、現代の自殺においては、ほぼほぼ成立しない話です。

たいていは、もう一つのタイプである、「他人から強制されてなるタイプ」であると言えるでしょう。

人柱の際にあげた例を現代風に言い換えるなら、「自分のむしゃくしゃを解消するために、SNSや学校、職場にて、面白半分に他人を標的にいじめて自殺に追い込む」殺人事件タイプと、「遺産や保険金がらみで自殺に追い込まれる」取引タイプ、「会社の倒産や不祥事などの全責任を押し付けれられて、責任をとらされる」責任タイプです。


これを鑑みると、現代の自殺は、野蛮な人柱事件と、構造はなにも変わらないんじゃないかと思えてきます。私たちは、迷信溢れる中世時代から、科学を発展させた現代へと進化したはずだったのではないのでしょうか?

自殺志願者の誰もが、太宰治や、芥川龍之介であるはずがないのです。「ぼんやりした不安」では、死なないのです。たいていは、ほかの誰かが原因で、自殺の道を選ぶのです。選ばされてしまうのです。自殺した人間には、彼や彼女を自殺に追いやった人間が、その周りに必ず存在しているのです




今日も、ふらふらとSNSの中を行商すれば、急に「こいつが悪い」という風評が占いによってランダムに選ばれ、晒されて、特定されて「死ね!」と連呼される目に合うかもしれません。寛政元年の時代は、九頭竜川という化け物が人柱を求めていましたが、現代社会では、ひとの意思という化け物が、なおも何万体もの人柱を求めて彷徨っているのです




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