こんにちは。八百屋テクテクです。
今回は、福井県の幸福が、女性の犠牲の上に成り立っているというお話をしていきたいと思います。
とは言いつつも、この議論は最近になって、各方面で盛んに言われてきたことです。わざわざ八百屋さんの私に言われなくても、福井に住む人々なら、自覚はあるのではないのでしょうか。
福井県は、保険会社のアンケート調査などで、長年「幸福度ナンバーワン」とされてきました。対象となった項目は、持ち家件数や長寿率、貯蓄率などで、一般的に幸福の度合いに関わるとされる数字が他と比べて良好だったことが、その結果に結びついたのです。そして福井県側もまた、それをいいことに「我が県は、幸福なんです」とPRしています。
一方で、「これは、女性の犠牲の上に、成り立っている幸福なんじゃないか」との指摘もあります。福井は、共働き率がナンバーワンの県です。要は、女性を働かせて、育児もさせてと、若い女性ばかりに多大なる負担を押し付けた結果、そのほかの人たちが幸せに暮らせている結果なんじゃないかと。
実情としては、まさにその通りです。嫁いできた女性に対する、「働け圧」がものすごいです。「いつから働くんや?」「身体悪いんか?」「いつまでも嫁さんを家に籠らせておいて、贅沢させてるんやなぁ」と、沖縄出身の妻が福井に来てすぐのころ、お取引先様の福井のおばちゃんたちと話になった時、開口一番に言われたのが、これです。あと「子供はいつや?」も添えて。
まあ、私は慣れているので適当に流しておくとこができますが、若い女性がこの場面に直面したら、控えめにいっても閉口するんじゃないでしょうか。これでは、女性を労働力としか見ていない、馬車馬と同じではありませんか。元厚生労働大臣が、女性に対して「子供を産む機械」と発言し炎上したことがありましたが、基本的には同じマインドを、福井の人たちは、大なり小なり、持っていると言えるでしょう。
このように、女性には「働いてもらい」「子供を産んでもらう」ことを前提として話がすすむのが、福井県なのです。
結婚した女性には、ほとんど選択の余地はありません。決められたレールの上を疾走するしか道はありません。女性は、自分のやりたいこと、実現したいこと、夢……それらすべてを犠牲にして、労働と育児を、していかなくてはならないのです。
このように書くと、福井から若い女性が逃げ出しそうですね。
実際、逃げ出しています。全員の行方を把握しているわけではないのですが、私の中学時代、高校時代の同級生の中で、とくに優秀だった人間は、県外の大学に行き、そのまま県外の企業に就職しています。福井を捨て、県外に人生を求めるのが、優秀な人間の思考なのです。
「県外に逃げないと、自分の人生が終わってしまう……」
そんな危機感が、彼ら、彼女らを動かしていたのです。
話は変わりますが、「幸福」って何でしょう?
宝くじが当たることでしょうか? 馬券が当たることでしょうか? 何か成功して、莫大な富を得ることでしょうか?
あるいは、会社で立場ある人間になって、多くの人間に指示を出して悦に浸ることでしょうか? アイドルと付き合って、みんなから羨ましがられることでしょうか?
なるほど、確かにこれらは幸福ですよね。私もこの先、そんな機会に恵まれたらいいな、と思っています。
が、本来の「幸福」の意味は、違っています。
「幸」の語源は、磔にされた人間なのです。似た字に「辛」という字がありますが、これは磔にされて、かつ両手を切り落とされた人間の様子を表しています。これは確かに辛いですね。「幸」は、磔にされたものの、切り落とされる直前で、刑の執行が見送られて、ホッとしていることを表しているのです。悪いことが回避されたという状態が「幸」の本来の意味なのです。
また、「福」は、祭壇を表しています。しめすへんは、お祈りをしている様子を指し、田は穀物を捧げている様子を表しています。残りの口と一ですが、これは封印を表しています。口は、クチではなく、悪いものを封印する箱を表しています。吉という字は、口をしっかり押さえている様子から、幸運を表す文字です。逆に凶は、封印が破れて、中から何者かが勢いよく飛び出している様子を表しています。このように、福の口の部分に、悪いモノを閉じ込めて、その封印が破られないように祭壇している様子が、福なのです。
このように、文字の成り立ちから見てみると、「幸福」とは、悪いことが起きない、という状態を指すわけです。
宝くじが当たった人間の、ほとんどは不幸になるそうです。いきなり大金を手にした人間は、自制を失います。そこに詐欺や、怪しい宗教や営業、知らない親戚がひっきりなしにやってくるようになるからです。寄ってたかって騙されて、気が付いた頃には、大金が当たる前よりも資産が減っていた、という事態になるそうです。
宝くじに限らず、何かを得た人間というのは、その得たものによって身を滅ぼされがちなのです。都会というのは、とにかく得るものが多いですし、福井から出て行った人間たちは、何かを得るために都会を目指したわけですが、それを手にした瞬間、滅びが待ち受けていることを覚悟しなければいけません。
ここからは、私の体験、体感の話なので、完全に独断と偏見の話になります。
私は昔、とある大型スーパーのアルバイトをしたことがありました。このスーパーで合同研修会が開かれて、大勢のアルバイト、パートが集められたのですが、講師として教壇に立ったのが、私と歳がそれほど変わらない、若い女性でした。スーツをパリッと着こなし、髪を整え、いかにもデキる女性、という出で立ちでした。彼女はトクトクと、お客様に対する感謝の気持ちやら、真心を込めて仕事をすることの大切さなどを説きました。研修会が終わった後、私は会場で彼女とすれ違った際、挨拶をしました。彼女は、私を一瞥するや、アルバイトふぜいか、という視線を投げかけて、無言で肩をきって歩いていきました。ハイヒールで、コツコツと音を立てて。
私は、怒るよりも、感動してしまいました。ナチュラルに人を見下せる人間に、ここではじめて出会ったからです。ひとは、特別な人間であるという自覚を持つと、下の人間を見下すようになるそうです。そう、本では読んだことがあったのですが、実際に出会ったのは初めてでした。しかも、さっきまで、感謝の気持ちやら、真心やらと、御託を並べていた人間が、です。「これは、進研ゼミでやったところだ!」とは、進研ゼミのDMの漫画の王道パターンですが、本に指摘されていたのと全く同じ人間がいて、まるで図鑑の昆虫を発見したみたいに、嬉しくなったのです。かわいそうに、この容姿の美しい講師の未来が暗いものであることは、この一事ですでに確定しています。彼女は、優れた能力を持っているがゆえに、自分の運命を悪い方向へと舵をきってしまっているのです。もう10年以上前の出来事なので、今頃ひどい目にあってるのではないのでしょうか。
一方で、このアルバイトの会場にて、私と一緒にこの講師の御託に付き合わされていたのが、福井のおばちゃんパート、またはアルバイトさんたちです。おばちゃんたちは真面目なので、感謝やら真心やらの話の際には、目をキラキラさせて、うんうん、と聞いていました。福井のひとは、信心深く、親切で、真面目なので、こういう話は特に心に響くのです。「若いのに、立派だねぇ」と、講師の女性を讃えるおばちゃんもいました。
福井のおばちゃんは、親切を行えば、親切が返ってくることを知っています。逆に、親切をされれば、どうにかして親切を返さなくてはと焦るのです。こういう、信心深さがあります。信心深さ、という言葉を使っていますが、別に特定の宗教を深く信仰しているというわけではありません。道徳心とか、倫理心と言い換えてもいいかもしれません。とにかく、人間には、目に見えない不思議な力学が存在することを、信じています。
こういう親切なおばちゃんがいる家庭のもとに、嫁ぐことができたお嫁さんは幸運です。どんな行政サービスよりも充実したサポートを受けることができるでしょう。また、こういう親切なおばちゃんが働く職場に入ることができたら、それもまた幸運です。わざとらしい社内制度をアテにしなくても、シフトや仕事のやり方について、最大限配慮をしてくれることでしょう。「あの子が休むせいで、仕事がまわらんわ」ではなく、「子供が小さいあの子に一人前の仕事を期待するほうが頭おかしいやろ。あの子がいなくても、ちゃんと仕事がまわるようにするのが、管理職の仕事やろ。なんとかせーま」と、全面的に味方になってくれて、管理職に掛け合ってくれます。
今では、福井の新婚の家庭は、夫婦と子だけで家を賃貸し、男親と女親がかわるがわる子供の面倒を見たり、差し入れをしたりといったライフスタイルが主流になっているようです。特におばちゃんは、やっぱり親と同居する際に、いやなことがあった経験をしていますから、次の世代を大事にしたいという思いがあります。
このように、福井のおばちゃんの親切さは、行政サービスあるいは社内制度以上の配慮をもたらしてくれているのです。このおばちゃんたちに支えられていることで、福井に住む若い女性は、子育てをしながら働くという、超人的なことをこなすことができているのです。
子育てに関しては、もちろん、おじちゃんたちにも出番があります。福井の男性というのは、先の講師の女性のような、特権意識を持ちにくいのです。だって、狭い福井に、特権階級たりえる肩書なんて存在しませんからね。なので「俺は大金を稼いできてるんだから、子育ては嫁の仕事だろ」とか言おうものなら、変わり者扱いになって、すぐに広まります。福井では大きな会社の社長でも、妻や子供の車の雪かきを黙ってしますし、保育園の送り迎えのために会社を抜けます。朝早くから道路に立って、子供たちの登下校を見守っています。米、野菜、灯油、スノータイヤ、子供の遊具、勉強机、ランドセル、制服、など、ありとあらゆるものをサポートしてくれます。それが義務だと思っています。義務というか、福井ならではの信心深さと、言い換えたいです。
他県と比べて、子育てに関する負担は少ないかというと、決してそんなことはなく、むしろ多いほうだと思います。ただ、そうして育った子供たちは、一様に学力が全国トップクラスに高く、身体能力も高い傾向にあります。子供たちがストレスなく、伸び伸びと育っていることが見受けられます。
とまあ、ここまでは私の見聞きした範囲での、福井の子育て事情です。
福井はもちろん、いい人ばかりではありません。自分のことしか考えないような、他人のことを考えらえないような、質の悪い人間もいます。今までの文章を読んだうえで「自分は福井で、虐げられています! 福井を美化するな」と文句を言ってくる人もいるでしょう。当然です。こんなものはケースバイケースで、すべての福井県民に当てはまることではないからです。同じ家族構成の世帯でも、すべてが順調で誰にも不満のない幸運な家族もいれば、すべてが嚙み合わない不幸な家族もあるでしょう。嫁いだ先でなんのサポートも受けられず、家事だけ押し付けられる、だなんて、最悪なパターンもあるでしょう。
そして、福井では女性や子育てに関する制度の整備が、不十分です。制度を考案できるような優秀な人材が、福井には不足しているからでしょう。もしくは全体的に子育てがうまく機能していると行政側が判断しているからでしょう。「まあ、現状みんなで協力できている家庭が多いみたいやし、別にわざわざ制度作らんでもいいやろ」みたいな。これは、今から福井で暮らそうとしている人たちからすれば、不安でしょうがないですよね。自分の禍福が、嫁ぎ先にいる人間に左右されるなんて、恐怖でしかありません。ましてや、私の内容に沿えば、福井の人の良さは、信心深さという、目に見えないものを根拠としています。そんなの普通は信じられませんよね。
そんな他力本願で不幸になるよりも、自分の禍福は、自分で選びたいと思うのが、人間です。
ただ、自分の禍福をつかみ取りたくて、田舎を出て行ったはずの優秀な人間が、都会で結婚して、孤立無援の状態になっているのをよく見ます。先ほどの講師のように、偉くなってアルバイトを見下す立場までに上り詰めたのに、今は助けてくれる人間も、気にかけてくれる人間も皆無。保育所には待機児童のため入れず、夫君は育休もろくに使えず、結局は24時間365日ワンオペで家事育児をこなして、ツイッターで自らの境遇を呪い、政治と、日本の男の悪口を垂れ流し、いいね!を貰うことで自分を慰めている姿。何も悪いことをしていないのに、どうして、こんなことになってしまったのでしょう?
一方で、福井の女性は、周りに助けられて子供を育てつつ働いていますが、彼女たちもまた、自分たちは不幸だと思っています。福井の幸福は、私たちの犠牲の上に成り立っているのだ、と。
あえて対比させようとするならば、都会の女性の負担は、能力なりお金なりを持っている人にも関わらず、育児の役割を押し付けられるという犠牲であり、福井の女性の負担は、レールの上を歩かされ、レール以外の自由はないという犠牲になります。こう書くと、福井の女性がおかれている状況は、より非人道的であります。一方で、都会の女性は、制度なりが一応整っているし、子供を産まないという選択の余地がある分、自己責任と言われがちかもしれません。
どちらの生き方が正解で、どちらが間違っているとか、そういう話ではありません。都会に行った女性も救われるべきでありますし、福井の犠牲もまた、なくしていくべきでしょう。
「幸福」の語源についてのお話をしましたが、福井の女性を取り巻く環境は、まさに福井らしい、と言わざるを得ません。
女性に何ももたない、もたせないことが、災厄を避けるコツだと言わんばかりです。名は体を表すという諺がありますが、福井に留まり、自分の能力と、それに伴う欲望を封印しているうちは、何事もなく過ごせるでしょう。それが本人にとって、いいかどうかは別として。
能力に覚えがある人は、福井の外に出てみるのもいいかもしれません。才能で栄達し、才能で滅ぶことができるのは、人間だけなのです。
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