こんにちは。八百屋テクテクです。
今回は、スピッツ「ローテク・ロマンティカ」について解釈していきたいと思います。
この曲は、ラブホとか、ねぐらとか、エロ関係を連想させるワードがでてくるので、エロ目線で解釈している方もいると思います。エロ目線でこの詞をみると、例えば「ウエハース」など、掛布団と敷布団に挟まれた男女、という見方になったりもします。そんなふうな解釈をしたとしても、まったく通じる歌詞となっています。
でも、私はこの曲を、あえて別の解釈をしてみたいと思います。
というのも、先のエロ目線の解釈をしてみようにも、うまくいかずに失敗しちゃったんです。ラブホにしろウエハースにしろねぐらにしろ、単語としてバラバラに点在しているだけで、詞全体として意味を汲み取ろうにも、うまくくみ取れなかったんです。
これまで解釈してきたマサムネさんの詞には、どれも一貫性があったので、この詞もまた、特定の解釈をすれば一貫性が生まれるんじゃないかなと思いまして。
そこで、どうにか一貫性があるような解釈がないかと探してみたところ、ちょっと合いそうな解釈がありましたので、これを紹介しておきたいなと。
題して、「ローテク・ロマンティカは、マサムネさんのひきこもり時代の曲説」です。
ねぐらで昼過ぎて 外は薄曇り
足で触り合っている ふんづけてもいいよ
なにげなく噛んでやる ウエハースになれ
ふてくされて引力に逆らう気持ち
部屋でずーっと寝ていたら、正午過ぎになってしまいました、という場面です。完全に自堕落な生活ですね。外は快晴ではなく、薄曇りになっているあたり、どんよりとした気分であることを想像させます。
じゃあ、この部屋で寝ていたのは、自分ひとりなのか、それとも誰かと一緒に寝ていたのか、という話になりますけど、私は、ひとりで寝ている場面だと解釈しました。足で触っているのは、寝転がりながら、布団の外にあるものを足で取ろうとしている様子なのかなと。足でテレビのリモコンとかをとろうとした場合、足の裏どうしをくっつけて取りますよね。こういう自堕落なことを平気でしてしまっているダメな大人なので、「ふんづけてもいいよ」と、その場に居もしない人間に対して、言っているのです。
「なにげなく噛んでやる、ウエハースになれ」は、その手繰り寄せたリモコンか何かに向かって、呟いている場面です。ようは、昼過ぎまで寝ていたので、腹が減っているのです。なので「こいつがウエハースだったらなぁ」という気分なのです。でも、当然ながらウエハースではないので、「ふてくされて」、「引力に逆らう」つまり、寝床から、よっこらしょ、と起きだす気持ちになっている、というふうに、この節は読めます。
このように、徹底的にめんどくさがり屋で、自堕落な主人公の姿を描いているというわけです。
ローテクなロマンティカ 誰かに呼び止められても
真ん中エンジンだけは ふかし続けてる
さて、この自堕落な彼の生活態度を踏まえたうえでの、「ローテクなロマンティカ」とは、いったい何なのか、という話です。
ねぐらで昼過ぎまで寝ているということは、どうも彼は、このローテクなロマンティカなものにハマって、夜通しで夢中でやりこんでいた、というふうに見ることができます。
まあ、この自堕落な彼がマサムネさん自身だとするならば、これは音楽であることが想像できます。それも、ローテクな音楽です。古い音楽、と言い換えることができると思います。のちに出てくる「ブーガルー」も70~80年代にかけて流行したダンスミュージックの事を指しますが、この時代はといえば、日本でのフォークソングブームやライブエイド開催など、現代音楽の黎明期であったと言えると思います。時代は下って90年代の、スピッツがデビューした頃ぐらいになると、その頃の音楽というのは誰かの手垢にまみれた、古い音楽になりつつありました。「へえ、今時ビートルズなんて聴いてるの? オッサンかよ」なんて、馬鹿にされるぐらいにまでなっていたのです。
でも、2020年代になった現在でもビートルズが評価され続けているように、いい音楽というのは普遍的な価値を持っています。マサムネさんは、ローテクな音楽にロマンを求めて、そのエッセンスを吸収しようとしていたのではないのでしょうか。
いや、そのロマンを感じた対象は、ビートルズではなく、松田聖子だったかもしれないし、谷村新司だったかもしれません。「今時そんなの流行らないし、ダサいよ」と言われる音楽だったかもしれません。とにかく、「誰かに呼び止められ」るような、そんな音楽だったのでしょう。
でも、「真ん中エンジンだけはふかし続けてる」と。このエンジンは、音楽に対する意識のことでしょう。このエンジンに、ローテク・ロマンティカという燃料を注ぎ込んで、情熱をふかし続けている、というわけです。
マサムネさんもアマチュア時代は、田村さんのアパートに上がり込んでファミコンばっかりやってた、と語っておりますとおり、常にストイックで真面目な生活を心掛けていたというわけではないようです。清潔で清廉な、僧侶のような生活を経た先に、サトリのようなものが開かれると、凡人の私たちは思ってしまいがちですが、マサムネさんの場合は、そうではなかったようです。この詞のように、自堕落さを見せています。
でも、音楽に対する態度だけは、別だったわけです。
本当は犬なのに サムライのつもり
地平を彩るのは ラブホのきらめき
孤独が見え隠れ 後まわしにして
辱かれてもいないのに 秘密を安売り
ここは、「本当はどんな音楽をやったらいいか迷っているアマチュアだけど、意識だけは、音楽でメシを食っていくつもりでいるから」と言いたげです。アマチュア時代でも「おれ、なんとなく音楽で食べていけそうな気がするんだよね」と、田村のアパートでファミコンをやりながら思っていたと、自伝で語っています。
「地平を彩るのはラブホのきらめき」ですが、ここでは「意中の女性とラブホに行きたい」という話ではありません。確かに遠くの地平では、ラブホのネオンが光っていたのかもしれませんが、これを眺めたアマチュア時代のマサムネさんが、どう思ったかが、ここでは重要だと思います。まだアマチュアでくすぶり続ける自分に対して、遠くでスポットライトを浴びる同世代のロックバンド。それを地平で光るネオンに喩えたわけです。そりゃあ、孤独であることの恐怖もあったでしょう。
「辱かれても」と、ここでは不思議な読み方をしていますが、屈辱なことを訊かれても、と読むことができます。私はミュージシャンではないので、屈辱的な質問というのがいまいちピンと来ないのですが、例えば「アナタの音楽って、○○のパクリですよね?」と、既存のミュージシャンとの類似性を指摘されることを指すのでしょうか? そして、自分がそのことを意識していればしているほど、屈辱に思うものなのでしょうか。
いちファンの感想としては、作品の性質が似るということは、音楽にしろ芸術にしろ避けられないことです。誰もがギターを使うし、誰もが絵筆を使うからです。
ただ、この詞のマサムネさんは「そうだよ。○○のパクリだよ」と、訊かれてもいないのに、「秘密の安売り」をしています。自分は特別な天性が宿った人間ではなく、いろんな、ローテクなロマンティカを燃料にしてでしか、音楽を作ることができない人間なんだよ、と。
この節では、アマチュア時代に抱えていた、暗くてネバネバした、ひきこもり特有の粘着質な想い、というものが、表現されているのだと思います。
ローテクなロマンティカ 今さらあふれ出すアモール
鳴りやまないブーガルー しっぽを振りながら
アモールは「愛」、ブーガルーは「批判」と翻訳しましょうか。もっと別の意味も含んでいるでしょうけれども、あえてこの二つを並べることで、よりドラマチックにこの部分を読むことができます。ローテクなロマンティカは、マサムネさんにとって、単なる無機質な養分だったわけではありませんでした。それこそ、生きていて、マサムネさんに愛を与えてくれるものもあれば、憎悪や非難をぶつけてきたものもあったでしょう。これらを、浴びるように聴いていたわけです。
思い切り吠える 岬から吠える
マサムネさんが、ミュージシャンとして吠えている場面です。自堕落な自分が、いつかステージに立って、大勢の人に自分の音楽を聞かせているのを想像している場面です。
という感じで解釈してみましたが、いかがでしたでしょうか?
スピッツの自伝「旅の途中」を読んだことがあるのですが、実は自伝よりも雄弁に、その当時の感情を語っていると感じました。
音楽は活字よりも、表現の幅が広いんですよね。なので、より感情に訴えることができます。もっとも、そんな技術をもっているミュージシャンなんて、ごくごく一握りでしょう。たいていは、活字にして長々と詳細を語った方が、より伝わるはずです。優れた能力を持つマサムネさんだからこそ、スピッツだからこそ、それが可能なのです。
スピッツは、すごいですね!
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