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スピッツ「野生のポルカ」は、初音ミクの曲説。~スピッツ歌詞解釈~



こんにちは。八百屋テクテクです。

今回は、スピッツ「野生のポルカ」について解釈していこうと思います。

最初に、ポルカ、について。ポルカって、何か知っていますか?

ウィキによれば、1830年頃おこったチェコの民俗舞曲で、速いテンポ、弾んだステップが特徴なのだそうです。これだけ聞くと、音楽に疎い人は、「??」って感じですよね。

でも、野生のポルカが収録されているアルバム「小さな生き物」の発売の少し前に、ポルカの曲で日本中、いや、世界中のネットで話題になったものがあったのです。

初音ミクの「Ievan Polkka」がそれです。

初音ミクは、人名ではなく、人工的に人間の音声を作り出すことができるソフトウェアのことです。これを操作することで、まるで人間が歌っているかのように表現することができます。

このソフトウェア、初音ミクの登場と、彼女の声を使って演奏されたポルカ、「Ievan Polkka」が国内外のネット上で一大旋風を巻き起こしたのです

今でも、ポルカ、を検索すると、まず最初にでてくるのが「Ievan Polkka」となっており、同時に初音ミクがサジェストに出てきます。

スピッツの「野生のポルカ」ですが、私は、この初音ミクの「Ievan Polkka」に多大な影響を受けて制作されたものなんじゃないかなと思っています。

いや、曲調はまったく違いますし、詞の中にも初音ミクっぽい表現はでてきません。

でも、「野生のポルカ」は、今までの環境を抜け出して、新しいことをやりたい、という強い意志を感じる内容となっております。そういう気分になるのって、どういう時かというと、何か想像してもいない、まったく新しい音楽に触れた時だと思うんです。「なんか、初音ミクって流行ってるらしいけど、一回調べてみよう、ポチポチ、うおーっ! なんだこれーっ!!?!?」って、新しい音楽にアンテナを張っているマサムネさんなら、特にそうなったと思います。のちに発表する曲で、ブチ、やナサケモノ、などは、この頃ネットで大盛り上がりだったツンデレアニメをモチーフにしたっぽい曲と私は解釈していますが、もしかすると、「野生のポルカ」の制作のきっかけとなった初音ミクが、マサムネさんをネット文化に引きずり込んだ張本人だったかもしれません。

かつ、初音ミクに「Ievan Polkka」を歌わせたのは、アーティストとして昔から人気があった人とかではなく、また大手広告代理店の宣伝効果というわけでもなく、あくまでもいち動画投稿者による動画でした。これがネットで自然発火し、一大ブームを巻き起こしたのです。このことを「野生のポルカだ」と、マサムネさんが絶賛していても、おかしくはないです。「野生のポルカ」というタイトルは、このブームそのものに対する、畏敬の念を表したものだったのかもしれません。そして、マサムネさん自身も、あくまでもいちアーティストとして、誰の手も借りず、本当にみんなに響く音楽を作りたい、という願いなのかもしれません。

まあ、あくまでも私が勝手にそう思っているだけなのですが、この解釈では、いったん、そうだとして聞いてもらえると幸いです。

初音ミクに触れて、「うおーっ、すげーっ!」って思ったことこそが、羨ましいと思ったことこそが、新しい世界へと足を踏み出す原動力になった、ということが前提にあると、この詞はわかりやすいと思うのです。




エサに耐えられずに 逃げ出してきたので

滅びた説濃厚の 美しい野生種に

戻る がんばる こんなもんじゃないよな

生まれ変わる前の ステージで

駆けめぐりたい くねった細道を

さよなら僕の 着ぐるみ達よ

「エサ」とは、報酬のことだと思います。スピッツは、みんなが求める曲を作って、ライブをして、その売り上げで生活をしています。のちに出てきますが、スピッツに求められている曲というのは「純粋そうな」曲ばかりです。スピッツのコアなファンはいざしらず、多くの人が持っているスピッツのイメージは、青春とか、綺麗とか、純情とか、そういうものです。ので、そういうイメージにそった曲作りが求められているわけです。「空も飛べるはず」とか、「チェリー」とか、青春の美しい一幕を描いた曲を、量産しなくてはいけません。

こうなると、曲作りが、ただの作業になります。一般の人でも仕事をしていれば、経験ありますよね。「本当はこっちのほうがいいのに、でも売れるからこうしないと…」というジレンマ。イチゴが旬でもない12月にイチゴがたっぷり乗ったクリスマスケーキを食べたり、植物が枯れる猛暑にあたり野菜が全然ない8月31日が野菜の日だったりと、八百屋さんにとっては、こういう話は山ほどあるんですけど、スピッツもまた、世間に広まっているイメージにより、そういうジレンマを抱えていそうです。

こういう、想いとは違うことをさせられ、飼い殺しになっている代わりにエサをもらっている状況から、逃げ出したい、という思いから、この曲はスタートしています。

また、「美しい野生種」とは、何を指しているのか。これまで述べてきた内容から想像すると、初音ミクの「Ievan Polkka」のように、何もしなくても多くの人に支持されるような音楽を作る人のことなんじゃないかなと。経歴や広告などの外部の力で助走をつけず、本当に音楽の力だけで爆発した初音ミクの「Ievan Polkka」は、「美しい野生種だ」と、マサムネさんのような人からみれば、思ったでしょう。

俺も「美しい野生種」になりたい、と切望しているのは、「がんばる こんなもんじゃないよな」とか、「駆けめぐりたい くねった細道を」の部分から見て取れます。今までの温室ぬくぬく栽培から、野生種に戻るのは、大変なことです。大変なことだとわかっています。それでも、やりたい、という思いが伝わってきます。

「さよなら僕の着ぐるみ達よ」は、今までマサムネさんが、プロデューサーあたりから、「こんなん作ってや~」って指示されて作った曲たちなのだと思います。プロデューサーは、世間が思うスピッツ像を汲み取って、マサムネさんに発注したのだと思うのですが、これはマサムネさんからすると、「着ぐるみ」なのです。俺は、こんなもんじゃねえ、という思いでいます。



純粋そうなそぶりで 生きのびてきたから

裏切られた分だけ 土をはね上げて

叫ぶ 笑う マネだっていいのさ

傷の記憶は「まあいっか」じゃ済まんけど

飛びまわりたい 武蔵野の空を

さよなら僕の 抜け殻達よ

このパートの前半部分は、上記で述べてきた内容の繰り返しになります。

「傷の記憶」ってなんでしょう? そのあとの「武蔵野」から想像すると、デビュー前の話になにか関係していそうです。マサムネさんは東京造形大学に入学してから、スピッツの現ベーシストの田村明浩さんとバンドを結成していますが、THE BLUE HEARTSに衝撃を受けて音楽活動を休止し、大学も中退、その後武蔵野美術大学に入学しています。この間にあった出来事のことを指しているんじゃないかなと。

この頃もまた、音楽性を模索していた時代でした。THE BLUE HEARTSの音楽性は、マサムネさんを活動休止へと追い込んだくらいの衝撃がありました。深い傷を負ったマサムネさんは、地べたをはいずるようにして、自分が目指すべき道を模索していたのです。

こんなふうにして、もがいてもがいて、やっと手に入れた今の音楽性。新しい音楽に惹かれたからといって、「まあいっか」であっさり捨てるわけにもいかない、というのが、この部分じゃないかなと。

だけど、そんな思いを抱えて生きてきた時代の象徴である「武蔵野の空」を、飛びまわりたいと言っています。

もしかすると、自由に飛びまわることが、自分たちの音楽を進化させる上では必要なことなんだと、自覚しているからこその発言かもしれません。

「野生のポルカ」、つまり初音ミクを取り入れることもまた、スピッツに必要なのです。



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