こんにちは。八百屋テクテクです。
今回は、スピッツ「花の写真」について解釈していきたいと思います。
「花の写真」というタイトルですが、私は最初に、このタイトルの名前に違和感を持ったんです。みなさんも、変だな、と思いましたか?
たとえば、アルバム「とげまる」の中でいうと、「恋する凡人」は、まさに恋する凡人について語られた詞になっています。「ビギナー」もそうです。「シロクマ」も、「聞かせてよ」も「えにし」も、みーんな詞のテーマになっているものがタイトルが付けられているのです。それが当然といわんばかりに。
「恋する凡人」の中では、「恋する凡人とは何か?」ということについて、たっぷりと語れているんです。
では、「花の写真」はどうでしょう? この詞の内容は、「花の写真とは何か?」という内容になっているでしょうか? 「あ~この花の写真、めっちゃ綺麗に撮れているよね~! カメラも高性能になってきてるし、インスタ映えするわ~!」って内容になっていますでしょうか? なんか違いますよね。
「花の写真」というタイトルなのに、詞が内容に沿っていない。これが違和感の正体です。
では、タイトルを適当につけたのか、というと、そういうわけではありません。マサムネさんは、ひとつひとつの曲を、とても大事に扱っています。この曲もまた、心血を注ぎ、魂を削って、めっちゃ気合を込めて作られた曲のはずなのです。
じゃあ、この違和感をどう解決したらいいのか、という部分に、私たちの解釈の余地がある、というわけなのです。面白いですね~!
私は、ブログタイトルにありますとおり、「花の写真」は、「花のように綺麗な、推しのアイドルの写真」説を提唱したいと思います。
これなら、花の写真は、人物の写真ということになり、詞の内容は、この人物に対する思いが込められた詞ということに、なるではありませんか。
かつ、どうして花の写真なのかというと、この人物の名前が、花の名前だったのではないのかなと。
桜(櫻)、向日葵、椿、百合、菫…人名として付けられる花の名前、いろいろ思いつきますよね。
この条件に該当するアイドルが多すぎて、マサムネさんの推しのアイドルが一体誰だったのかは全然見当もつきませんが、とにかく、この詞は、彼女と同じ名前の花を育てていることを、ひとつの交流として、描いたものなんじゃないかなと。
順番に見ていきましょう。
小さなカメラがつないでる 切れそうで切れない細い糸
取り残されているような 古ぼけた街で
そういえば去年もこの花を どうでもいいような文そえて
黄色い封筒に入れ 送ったね確か
上記で述べた仮説と、「小さなカメラ」と「古ぼけた街」というワードから、もうちょっと解像度を上げてみますと、あまり話題になっていないご当地アイドルが、地元を盛り上げようと必死に頑張っている姿、というのが想像できます。私は、そう捉えました。
これがアイドル活動を示しているとしたら、小さなカメラしか調達できない点とか、古ぼけた街とか、活動の規模が小さいことが伺えます。
「切れそうで切れない細い糸」という点も、それを裏付けています。彼女がアイドル活動を辞めてしまったら、もう、応援している自分と彼女を繋ぐものが何もなくなってしまいます。彼女が辞めるリスクもさることながら、運営団体が消滅するリスクも十分にあるのです。ファンも数えられるほどで、テレビの露出も少ない、スポンサーもごくわずか、といった、ご当地アイドルあるあるな状況が想像できます。ウィキペディアを覗くと、全国にアイドルが無数に存在していることがわかりますが、テレビに引っ張りだこなトップアイドルなんて、ごくごく一部なんですよね。
そんな細々と綱渡りの活動を続けているアイドルの一人を、マサムネさんが個人的に応援している、というような構図なのではないのでしょうか。
また同じ 花が咲いた
遠くの君に 届きますように
鮮やかな 雨あがりで
僕らの明日も 澄みわたりますように
「拝啓。いつも応援しております。草野マサムネと申します。前回お会いしてからずいぶん経ちましたが、元気で活動されておりますでしょうか? ちょうどお庭に、アナタと同じ名前の花が咲いたので、アナタのことを思い出しました」
みたいな応援の手紙とともに、花と一緒に自撮りでもした写真を同封して、アイドルに送った、というエピソードが、この詞から想像できます。普通の一般人がこれをやると迷惑になるかもしれませんが、草野マサムネなら成り立ちます。このアイドルはどれだけスピッツを認知しているかはわかりませんが、私が思いますに、今世紀最大の天才なのですから。私がアイドルの立場だったら、額縁に入れて家宝にします。
いつかは終わりが来ることも 認めたくないけどわかってる
大げさにはしゃいでていも 鼻がツンとくる
街路樹がさわぐ音の中 靴擦れの痛みも気にしない
水たまりを飛び越え 早足で歩く
この部分ですが、厳しい現実と向き合っている場面なのかなと。アイドルは、永遠にアイドルというわけにはいきません。そりゃあ、トップアイドルでしたら、引退後もテレビに呼ばれたり、CMの仕事に呼ばれたりするでしょう。でも、あまり認知度がないないようなご当地アイドルの行先は、一般人と同じです。会社員として世の中に埋もれていくことでしょう。中高生からアイドルを初めて、二十代前半で卒業となると、活動期間は多くても十年程度。この期間で、ゼロから実績を積み上げるのは、並大抵のものではありません。
そんな中で、この言い方をするということは、いつかは終わりが来る、とわかっている、というよりむしろ、終わりがすぐ先に見えているぐらいの状況なのだと思います。
イエーイ、とか、元気いっぱいにパフォーマンスをしている姿を見る時、鼻がツンとしているということは、つまりはそういうことなのだと思います。
「靴擦れの痛みも気にしない」のは、アイドルのほうだと思うのです。ステージ上で激しく踊るので、靴擦れします。
街路樹がさわぐ音の中でイベントしているのもまた、彼女の活動の規模の小ささが伺えます。商店街とか公園とかで開催されるイベントの特設ステージが、彼女の活動の舞台なのです。
自分の舞台が終わったら、さっそうとステージを降りて、控室代わりのワンボックスカーに早足で向かいます。そこも正規の駐車場ではなく、ぬかるんで、水たまりになっているような場所に追いやられてしまっているのです。
また同じ 花が咲いた
大事な君に 届きますように
こんなことしか できないけれど
泣きそうな君が 笑いますように
小さなイベントに全力を尽くし、笑顔で舞台を降りる彼女ですが、観客の反応に手ごたえがないのは、自分でもわかっています。地元のおじいちゃん、おばあちゃんを相手にしているのですから、当然です。見えない所では、泣きそうになっています。自分はいったい、何をやっているんだろう、と、心に降る雨で湿っぽくなっています。
そんな君を笑顔にさせたい、という思いで、マサムネさんはファンレターを書くのです。
という感じで解釈してみましたが、いかがでしたでしょうか?
ここまで妄想してきて「花の写真」は、実は本当に花の写真のことを言っているんじゃないか、とも思えてきました。掛詞は、ひとつの言葉に別々の違う意味を持たせ、それぞれの意味を感じ取ってもらう手法ですけれども、「花の写真」もまた、掛詞になっているのかもしれません。花のように綺麗な笑顔を見せるアイドルの写真と、それを思ってマサムネさんが育てた本当の花の写真、です。
あくまで私の勝手な妄想ですけれども、こういう妄想ができるのも、スピッツの詞の世界が広い証拠でもあります。
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