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スピッツ「自転車」にみる、人生観。



こんにちは。八百屋テクテクです。

今回は、スピッツ「自転車」の歌詞を眺めながら、人生観について語っていこうかなと。

この曲は、自転車でどっかにいく、みたいな詞になっているんですけど、それがどうも、人生になぞられているんじゃないかなと。

ありていに言ってしまえば、「そんなに急がないで、自転車みたいに、スルリスルリといこうよ」みたいな。


人生を乗り物で例えるとするなら、列車がよくでてきますよね。敷かれたレールの上を走る、なんて言われた方をします。偏差値のいい学校、偏差値のいい大学にいき、いい会社に就職し、いい家柄の人と結婚し、幸せな家庭を持ち、出世を重ねて、退職金で悠々自適な生活をする。これが理想の人生と考えられています。なので親は、子供にこういう人生を歩んでほしくて、塾に入れたり、習い事をさせたりと、子供のためにせっせとレールを敷いてあげるのです。子供は、そのレールに乗っかって、ただ一直線に自分を走らせる……いい学校に入ったらいい大学へ、いい大学に入ったらいい就職先へ、と、次の目標に向かって、ひたすらにレールの上を走ることが、いい人生なのです。そういう価値観の人を、列車と例えられます。

あるいは、自分の人生を自動車に例えたい人もいるでしょう。意識高い系の学生とか、経営者とか、ビジネス系インフルエンサーとか。自分で好きなようにハンドルを切って目標を定めて、その目標に向かって思いっきりアクセルを踏む。エンジン全開でイケイケドンドンがポリシーです、みたいな人は、自動車と言えるでしょう。

列車にしろ、自動車にしろ、こういう価値観の人は、目標に向かって進む速度をどれだけあげられるかに重点を置いています。いい点数をとったり、いい成績をあげたり、お金を稼いだり、し続けなければいけません。ずーっと、頑張り続けなければいけません。


そんなに飛ばして生きて、大丈夫でしょうか?

車は、ずーっとエンジン全開だと壊れます。列車だって、レールを敷いてくれる人がいなくなったら、どうなるのでしょう?

人生は自分自身のものなので、自分がそれで良ければ別にいいんですけど、もしエンジン全開で生きていくのに疲れたのだったら、自転車に乗り換えて、スルリスルリと生きていくのは、いかがでしょう?

この詞は、そんなふうに言っているように思うのです。




望まないことばかり 起こるこの頃

ペダル重たいけれど ピークをめざす

たぶんこの詞の主人公は、先に挙げた「列車」だったのだと思います。レールの上で、ひたすら走り続ける人生を送ってきたのではないのでしょうか。でも、レールが歪んだりして、うまく走ることができなくなってしまった。みんなの期待を背負っているのに、それが叶えられなくなってしまった。望んだ学校や大学に受かりそうにない、就職が見つからない、仕事で大失敗しちゃった、彼女にもフラれてしまった……そういう不幸な状況が、このところ続いているようです。

なので、エンジン全開で走り続けることをやめて、自転車に乗り換えて、目的地までいくことにしました。自転車は列車に比べると遅いですけれども、ペダルを漕ぐことを止めなければ、いつかはピークという名の目的地につきます。こういう緩いペースに切り替えて、ゆっくり進むことにしたのです。



モーレツに情けなく 涙隠すよ

大げさな君の心配顔 浮かんでぼやけた

ここは、普通に自転車に乗っているだけでは、意味が読めない部分です。

でも、列車や自動車としてブイブイ言わせてていた自分が、速度の遅い自転車に乗り換えたことで、周囲の見る目が変わった、という解釈をすれば、「モーレツに情けなく」とか「大げさな君の心配顔」というのも、読めてくると思います。「なんだあいつ、レールを外れやがって、所詮その程度の人間だったのか」なんて、侮蔑の声が聞こえてきそうです。それに対して、「そのとおりだ…」と自分で納得することがあれば、自分で選んだこととはいえ、モーレツに情けなくなるでしょう。涙も出てきちゃうでしょう。自分を大切にしてくれる人だったなら、「心配顔」が思い浮かんでしまうでしょう。

でもその次は、浮かんでぼやけた、となっています。自転車でいくと決めたのなら、迷っていては仕方がありません。後ろ向きな気持ちで、仕方なく自転車に乗っているわけではなく、あえて自転車でいくと決めたのです、それなら、前向きにペダルを漕いでいくことが大事なのです。



冒険のつもりで 重ねた時だけど

最高のイベントは まだ先にあるはず

レールの上の景色しか見たことのない主人公にとって、自転車から眺める景色は冒険でした。いろんな場所に、思いついた場所に、好きな場所にいけるのです。これは楽しいですね。

でもまだ、自転車の景色を味わい尽くしていない、と感じています。「最高のイベントは まだ先にあるはず」と、わくわくしています。



自転車で行きたいな スルリスルリと

君の育った町まで 次の休みには

「君」は、主人公の恋人でしょうか。列車や車の頃って、恋人に対してどうしていたでしょう? たぶんカッコいいスポーツカーで海沿いをドライブしたり、ブティックでオシャレな服や靴を眺めたり、オシャレなカフェや高級レストランで喫食したりと、「これぞあるべきデート」みたいなのがあって、それを実行していたのだと思います。ラーメン屋さんやサイゼリヤ、マックにいくのはNG、ユニクロ1色はNG、しまむらもNG、4℃はNG、……そういう価値観で生きたのだと思います。あるいは、マックやサイゼリヤにいってデート失敗した人の話を聞いて、「ほら、マックやサイゼリヤにいくからだよ」と、その人の思慮の浅さを嗤っていたのだと思います。

でも、自転車でいく人生にしたのなら、デートはマックかサイゼかなんて価値観に、こだわらなくて済みます。

そもそも、列車ではなくなったのでレールに沿ったデートをしなくてもいいのです。自分のやりたいようにやればいいのです。君が住んでいる遠い街まで、何時間も自転車を漕いで、着いたら「ついたよ~」とだけ挨拶して、数分会話して満足して、そしてそのまま帰路につく。そんなゆるい一日があってもいいのです。君の住んでいる街までの景色を楽しむだけの一日が、あってもいいのです。君に、かっこいいと思われなくてもいいのです。



戻れないことは 百も承知だったよなあ

感動のチャプターは もうちょい大事にとっておこう

ここは、いったん自転車でいくことを選択したら、途中で列車には戻れない、ということを言いたいのかなと。

なので、行きたい場所にいくのを、もうちょい先延ばしにしようと考えています。あれもこれも、と目指してしまうと、列車や車でいったほうが効率がいい、ってことになってしまいます。自転車を思いっきり漕いで、急いで目的地に向かおうとするなんて、何をしているか、わけがわからなくなりますからね。

なので、目的地には向かうけれども、そのたどり着いた感動は、もうちょい大事にとっておこう、という心持でいます。急がず、あわてず。



自転車で行きたいな スルリスルリと

伸びて縮んでくうちに なんとかなるだろう

なんとかなるだろう どうにか出来るだろう

「なんとかなるだろう どうにか出来るだろう」が、この詞でもっとも言いたかったことなんじゃないかなと。

誰もが列車や自動車にならなくてもいい。列車に生まれたからといって、ずーっと列車として頑張り続けなければいけないというわけではない。自転車になっても、人生どうにか出来るだろう。そう言いたいんじゃないかなと。




という感じで解釈してみましたが、いかがでしたでしょうか?

レールの上から降りる、というと、なにやらネガティブなイメージがあります。道を踏み外した、とか、堕落とか、ドロップアウトとか、そんなふうに言われたりします。し、自分でもそう思ったりします。なので、レールから外れるのが怖くて、列車としてレールの上で必死に頑張っている人も、いるんじゃないでしょうか。

でも、道を外れたその先にも、ちゃんと道があるのです。サイクリングロードが舗装されていて、見たことのない景色を眺めながら、ゆっくりとした登り坂を登っていく道だってあるのです。人生をゆっくり行くのも、意外と、気持ちよかったりするのです。




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