こんにちは。八百屋テクテクです。
今回は、スピッツ「稲穂」について解釈していこうと思います。
あくまでも、あくまでも私の解釈なんですけれども、この詞からは、売れない時代のマサムネさんを強烈に支え続けてくれた、めっちゃ神様のような存在がいることが見え隠れしていると思うんです。
いや、このブログのシリーズは、特にこんな前置きをしなくとも、私の解釈であり妄想であることには変わりないんですけれどもね。本当かどうかなんて、わかりません。
でもでも、「こんな解釈をすると、なんか見えてきました~」っていうの、ひとに聞いてもらうのって楽しいんですよね。
なので今回も、どうぞこの八百屋さんの妄想にお付き合いくださいませ。よろしくお願いいたします。
順番に詞を眺めていきましょう。
美しく実る稲穂に 愛を知る 夢も終わる頃
駆けだした 風に逆らい 夕焼けが 僕らを染めていた
私の解釈では、この部分は、というか、この部分のみ、「稲穂」を語っています。より詳しく言えば、「コシヒカリ」のことを語っています。
コシヒカリという品種は栽培が非常に難しく、長い間試作品の段階を出ない品種でした。品種開発をしたのは新潟県で、育苗試験を行っていたのは福井県です。この稲作試験でも当時最先端の二県がタッグを組んで、コシヒカリを生産の軌道に乗せようと頑張っていたんですけれども、なかなかうまくいきませんでした。コシヒカリという品種は食味がいいので、大量生産できれば米の品質がぐっと向上することはわかっていたのですが、いかんせん病気に弱く、また実るほどに頭が重くなって倒れやすくなっていくという欠点を克服できずにいたのです。稲が倒れてしまえばそれ以上は育つことがなく、未熟な米として終わってしまいます。台風の後などはミステリーサークルみたいに稲が倒れていたりしますよね。ああいうふうになってしまうと、もうダメなのです。
数々の実験を行いましたがことごとく失敗して、育苗側の福井県が音を上げました。「新潟県さん、もうこの品種ダメですわ」と、コシヒカリの育苗実験を終了しよう、この品種をボツにしよう、と打診しました。
でも、ただひとり、新潟県の農業試験場長だけは、コシヒカリという品種に賭けていました。この品種は、ぜったいにイケる、と。
彼はコシヒカリについて、短歌を詠んでいます。「木枯らしが吹けば色なき越の国 せめて光れや稲越光」冬には雪に閉ざされてしまう福井県から新潟県に至る越の国で、コシヒカリが輝かせる光となりますように、と。当時の、これといった産業もなく現状打破に苦しむ越の国において、コシヒカリという品種に、希望の光を見出していたのです。
ずーっと失敗し続けて、投げ出しそうになっていたコシヒカリ。それでも信じてくれる人がいたので、ついには育苗試験に成功しました。そして今ではコシヒカリは、日本でもっとも生産量が多い品種になっています。食味の良さが、大ブレイクしたのです。彼が詠んだ句のように、越の国にとって希望の光、つまり名実ともにコシヒカリとなったのです。
マサムネさんはこの話をきいて、ガーンとなったに違いありません。コシヒカリの歴史は、まさにスピッツの歴史と同じだからです。スピッツの歴史を、目の前に美しく広がるコシヒカリの稲穂に重ねているシーンなのだと思います。
「愛を知る」、とは、コシヒカリという品種を信じ続けて、諦めなかった新潟県農業試験場長の愛のことかなと。同時に、これは後の詞で出てきますけれども、もしスピッツの歴史と重ねてたとしたなら、デビューしてからロビンソンの大ブレイクまでの低空飛行の間、マサムネさんの才能をずっと信じ続けていた人の存在もまた、あったのではないのでしょうか。「コシヒカリにとっての新潟県農業試験場長にあたるひとが、俺にとってもいるなぁ。愛だったんだなぁ」と。
「夢も終わる頃」とは、稲穂の発表時のことかなと。「ロビンソン」「チェリー」「空も飛べるはず」の大ヒットからしばらくたった後の、もうそれ以上は売れる曲は書けそうにないなぁ、と客観視できてきた頃でもありました。売れている途中は自分たちでも、何が何だかよくわからないまま状況に流されていて、「ロビンソン、売れてるの? へぇー」みたいな他人事のようだったと自伝で語っておりましたが、まさにこの頃は「夢」の中にいたと言えるでしょう。これがゆっくりと終わっていく頃に稲穂のエピソードを体験し、「稲穂」の詞を描き上げたんじゃないかなと。
「駆けだした 風に逆らい 夕焼けが 僕らを染めていた」は、コシヒカリの稲穂を眺めている場面です。先ほども触れたとおり、コシヒカリは風に非常に弱い品種です。でも風に逆らって立ち続けて、実りを迎えています。稲穂の黄金色と、夕焼けによる黄金色。これら一体となって、マサムネさんと、すぐそばにいる彼女を黄金色に染めています。稲穂もスピッツも、見事に実った瞬間だったでしょう。
あり得ない明日に憧れ 何度でも無理にふくらまし
そんな日々を軽くなでられ なんでだろう?涙が止まらない
なんでだろう?君から逃げられない
ここからは、先ほどのコシヒカリのエピソードに重ねたマサムネさんの音楽人生を描いているのかなと。大ブレイクを夢見て次々と楽曲を作ってみるも、思うようなヒットに恵まれず……それでも自分の才能を信じて無理してきたけれども、現実という名の台風に軽々となでられて、マサムネさんの楽曲たちは実る前に倒れてしまった。これは「涙が止まらない」ですね。
コシヒカリの育苗を諦めた福井県と同じように、マサムネさんもまた、自分自身の才能を信じれなくなってしまっていました。いくら作ってもムダじゃないか、と気持ちが折れてしまっていた。
でも、自分さえも信じていなかったマサムネさんの才能を、彼女はずっと信じていてくれた。「諦めちゃダメ。うまくいかないなら、うまくいくまで作り続けるのです!」と。彼女は、マサムネさんを逃がしてくれませんでした。
誰にも会えない気がしてた クジ引きだらけの街にいて
もうウソはつけない 無性に何か飲みたい
初めて本気でカワイイ蜂に刺された
売れていない頃は、ずっと一人で歌を歌っているような、手ごたえのない感覚だったのだと思います。「クジ引きでヒットする曲が決まるような世界で、俺はまだ誰にも会えていない。誰にも支持されていない……」という感覚だったのでしょう。
でもそれは気のせいでした。ロビンソンの大ブレイクをきっかけに、自分の楽曲たちが評価されだしたのです。
そこではじめて、マサムネさんは気が付くのです。「ああ、俺さえ諦めていた俺の才能を、ずっと信じてくれた人がいた」と。自分の才能を疑っている頃は「口から出まかせいってるんじゃねーぞ、俺には才能なんてないんだ……」といじけるばかりで、彼女の言ってることを素直に受け止められませんでしたが、成功したことで「本当だったー!」とビックリ仰天するのです。「初めて本気でカワイイ蜂に刺された」とは、このビックリ具合のことを言ってるんじゃないかなと。
また、「無性に何か飲みたい」とは、この彼女のことを示しているんじゃないかと思います。たぶん彼女はカフェ店員とかだったんじゃないかなと。あるいはマサムネさんと一緒にいる時は、何か飲み物を出してきてくれて、くつろげるように配慮してくれる人だったんじゃないかなと。なので彼女のことを想う時、「無性に何か飲みたい」となるのです。何かドリンクを飲むということは、彼女と一緒にいて、他愛もない時間を過ごす、ということなのですから。
泣き笑いドラマよ続け 夕焼けが僕らを染めていた
夕焼けが世界を染めていた
これからも、スピッツは続いていくでしょう。自分を信じてくれた彼女と一緒に。
この泣き笑いのドラマが、ずっと続いてほしい、と、目の前の夕焼けに染まった景色に願いを込めています。めちゃめちゃいい雰囲気です。これは、詞でなければ描けない光景ですね。稲穂という、初見ではちょっととっつきにくいタイトルですが、よくぞこのテーマで詞を描いてくれた、と私はマサムネさんを絶賛したい気持ちでいます。
ケモノになれないケモノでも 優しくされたら燃え上がる
遠い国の景色 今 君に見せたい
最後の花火を二人で打ち上げようよ
「ケモノになれないケモノ」とは、もしかするとマサムネさんの、彼女に対する気持ちなんじゃないかなと。この詞は、彼女とコシヒカリの実りの光景を眺めに行った時の様子を表していますが、他の楽曲と比べても、ずいぶん個人的な様子が描かれているように感じるのです。マサムネさんが手がけるたいていの曲は、私たち凡人にも共感できるような、普遍的な内容です。空も飛べるはずの「君と出会った奇跡がこの胸に溢れてる」も、ロビンソンの「誰も触れない二人だけの国」も、チェリーの「愛してるの響きだけで強くなれる気がしたよ」も、すべて私たちの人生に当てはめることができます。でも、何かに感動した時「無性に何か飲みたい」のくだりは、マサムネさんと彼女との間にしかない、特別な事情が伺えます。同時に「ケモノになれないケモノでも」もまた、マサムネさんと彼女の関係を表しているんじゃないかなと。彼女はすでに誰かの妻だったりとか。あるいは病気を患っているとか。「優しくされたら燃えあがる」つまり愛しくて、ひとつの男女として性行為したいと願ってはいるものの、事情によりできない、と。そういう関係性が伺えます。
また、これはちょっと不吉な解釈になってしまいますが、これに続く歌詞が「遠い国の景色 今 君に見せたい」と「最後の花火を二人で打ち上げようよ」になっているあたり、彼女は病気を患っているような気がします。稲穂の歌詞から想像すると、遠い国の景色は、これからのスピッツの活躍のことだと思います。コシヒカリ種苗の供給量拡大によって、日本全国にコシヒカリが広がっていったように、スピッツの楽曲が日本全国に拡大していく光景。それが病気の彼女にとっては、眺めることのできないかもしれない、遥か未来の光景なんじゃないかと。また最後の花火は、実際の花火のことかもしれないし、ロビンソンの大ブレイクのような、バーンと大きく打ちあがる大ヒットの楽曲を作るということなのかもしれません。マサムネさんにとっては、大ヒットの楽曲を再び作るのは、彼女のような人ががそばにいてくれる限り可能でしょうけれども、彼女の事情を考えると、できたとしても最後になるだろうな……という見込みがあります。彼女に残された時間は、そんなに長くないということです。
なので、この背景を踏襲すると、最後の「泣き笑いドラマを続け」は、彼女の命が、すこしでも長くあることを望んでいる詞となります。
という感じで解釈してみましたが、いかがでしたでしょうか?
この詞の解釈通りの内容だとするなら、どんな気持ちで聴けばいいのか、よくわからなくなってきますね。
でも、やはり稲穂の曲から感じられる、「美しく実る稲穂」に感動している光景というのはめちゃくちゃ美しいと思いますし、まさにその光景を伝えたいというのが、この詞の趣旨になっていると思うのです。
なので、解釈がどうであれ、稲穂の美しさと、マサムネさんの感受性の強さに思いを馳せて、ああいい曲だな~と素直に感動するのが、この詞の正しい聴き方だと思うのです。
また、めっちゃすごい詞を、こうして作り上げることができるマサムネさんの才能。それを最初に見抜いた人はすごいと思います。信じぬいたことがすごいと思います。
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