こんにちは。八百屋テクテクです。
今回は、死の曲として認知されている、スピッツ「水色の街」について解釈していこうと思います。
あっ、今回は死の曲として終始解説していくつもりなので、苦手な人はここでお別れです。お疲れさまでした。この曲は、街中水色のペンキで塗られた、ファンキーな場所に住んでいる女の子に会いに行く、胸がキュンキュンする曲となっております。それ以外には意味などありません。このブログの下にも、記事はありません。本当です。いいですね?
まぁ、結論はすでに出ています。
公式がアップロードしている、この曲のユーチューブのコメント欄を眺めてみると、死の曲であることを前提として話がなされています。「不気味だ」「死を連想させる」というコメントに続いて、「でも美しい」と、曲の美しさを賞賛する意見が相次いでいます。
なるほど、「川の向こうにある君の住んでいる街にいこう」と素直に読みとる人よりも「亡くなった君に会うために、三途の川を渡ろう」と読む人のほうが、よりスピッツ慣れしているといえるでしょう。だって、過去にこういう例が死ぬほどでてきているものですから。いい加減、ファンも慣れるというものですね。
いったいどうして、死に関する曲だと言えるのか。
歌詞を眺めてみると、実際に、そのヒントが浮かび上がってきます。
川を渡る 君が住む街へ
会いたくて 今すぐ 飛び跳ねる心で
水色のあの街へ
まず、川の向こう側にいく場合、普段は何と言いますか? 「川を渡る」と言いますか? それとも「橋を渡る」と言いますか?
昔は、どちらも使われていたと思うのですが、現代では「橋を渡る」のほうが多くなってきたのかな、という印象です。今では川を渡るには、必ず橋を使います。橋渡しの船なんて、観光地にしかありませんからね。歩いて渡ることも、整備された街の中であるならば、まずないでしょう。
そうです。普通に川を渡る場合の表現として「川を渡る」を使うのは、現代においてはやや不自然なのです。
一方で、「橋を渡る」という曲は、数多くあります。サイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋(Bridge over Troubled Water)」とか、HOUND DOGの「BRIDGE~あの橋をわたるとき~」なんかが有名ですね。これらの曲は、川を困難や絶望に、橋を希望に見立てて、それを渡っていく力強い曲となっています。橋を架けて渡河することは、生のパワーが溢れる表現だと言えるでしょう。
では、「水色の街」の歌詞は、なぜあえて「川を渡る」というワードを使用しているのでしょう?
もう答えはでていますね。生のパワーが溢れちゃってはいけない場面だからです。
川を、困難や絶望の象徴として捉えるなら、その川を、橋を使わずに渡ろうとすれば、どうなるでしょう? ひとは水に足をとられ、流されてしまいます。
優しくなって プレゼント持って
会いたくて 今すぐ 間違えたステップで
水色のあの街へ
「飛び跳ねる心で」「間違えたステップ」と、君に会えることの嬉しさを隠さないでいますが、肝心の「君」に関するナマの情報がひとつも出てきていません。この二人が会って、「いやぁ、今日ちょっと混んでたから遅くなっちゃった。ゴメンゴメン。それよりさ、プレゼント持ってきたんだ。気に入ってくれるといいなぁ」とか、そういう話が、この詞にはないんです。あくまでも、僕が君に会いにいくために、川を渡るところまで。これは、普通の恋愛を題材にした曲だとすると、あまりにも消化不良だと思いませんか?
そして、タイトルの「水色の街」 タイトルは、歌詞の中でももっとも表現したいものに付けられるものです。つまり、「これは、水色の街とは何かについて、ちょっと考えてちょうだいね、という曲なんですよ」という、マサムネさんからのメッセージなのです。
ということは、「水色の街」は、ただ水色に見えるだけの街ではないということです。
頸の匂い 明るい瞳
会いたくて 今すぐ 泥まみれの靴で
水色のあの街へ
頸の匂いも、明るい瞳も、普段に生きていたのでは、わからないし、見えないものです。恋人同士でも、相手の頸の匂いを感じたことなど、あまりないでしょう。普段から会っている人の顔を浮かべて、あの人は明るい瞳だなぁ、と意識することはないでしょう。この表現は、僕の頭の中だけにある、「君」の想像図なのです。想像図だから、綺麗だし、いい匂いがします。そして、想像図としてしか認識しえないということは、「君」は、すでにこの世の人ではなくなっているということでしょう。
「泥まみれの靴」とは、やはり頑丈なコンクリートの橋の上を渡っていない証拠です。なぜ橋のない川を、今すぐ渡ろうとしているのか。つまり、そういうことです。
という感じで解釈してみましたが、いかがでしたでしょうか?
これまで解釈してきたスピッツの曲でも、ストレートに死を扱った曲というのは、意外にも少なかったです。
それだけに、「水色の街」は、ある意味、正当な、スピッツらしい、死の曲だと思います。
正面からの死の曲は避けつつも、死の曲を考えることについては怠らなかったはずです。なので、より完成された死の曲を、私たちは味わい、愉しむことができるのでしょう。
死の曲を愉しむ、とは、なにやら物騒な言い方になってしまいましたが、人間の感性というのは、そういうのを受け入れるだけの度量の広さをもっていると、マサムネさんが信じて作ってくれたと思いますので、ファンとしては、彼の期待に応えるだけの度量の広さをもって、この曲を受け止めてみたいですね。
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