こんにちは。八百屋テクテクです。
先日、ロック大陸漫遊記で歌ウサギの歌詞を解説していた場面があったそうで。
すみません最近全然ロック大陸漫遊記、聴いておりません…。一般的にはロック大陸の放送は日曜日の夜9時からで、その時間帯にはTLが騒がしくなるため、ああ~ロック大陸やってるや、ってわかるんですけど、福井だけは木曜日の夜9時からなんですよね。なむ~。
ちなみに日曜日の9時からはラジオのネタバレを避けるため、しっかりツイッターを閉じているわけなんです。でもまさかの本番もラジオを聴かないせいで、ラジオでしゃべった内容がまったく何もわからずじまいという、とんだことになっているわけなんです。
このため、ラジオの内容は、熱心なスピッツファンの友人経由で聞いたわけなんです。
なんでも最近は、歌詞解釈のようなことをポロポロと言ってくれているみたいで。ファンにとってはありがたい話ですね~。特に私みたいな、スピッツの歌詞はどういう意味なのか気になって夜も眠れない層にとっては、ありがたいお話です。
まぁ、それを聞き逃していたのでは、どうしようもないわけですが…。
開幕反省が長くなりましたが、「歌ウサギ」の「どうでもいい歌」とは「青い車」のことだった、という話です。
聞いた瞬間、へぇ~そうだったのか! と私は、過去一番大きな声が出ちゃいました。
あんなに驚いたのは、妻が私に「好きです」と告白してきた時以来でしたね。
同時に、これはやはり友人からのまた聞き情報なのですが、青い車は「矛盾していることを言っている」から、マサムネさんに「どうでもいい歌」に認定されたのだ、というようなことを言っていたようですが、そうなんでしょうか。
なるほど確かに、「青い車」では、「君の青い車で海へいこう、置いてきた何かを見に行こう」と言っています。歌ウサギの「どうでもいい歌」とは「何かを探してどこかへいこう」とか言ってる歌のことを、どうでもいい歌と言っているわけですから、ここで特徴がバッチリ当てはまります。
うーん、「何かを探してどこかへいこう」という歌詞は、今昔あらゆるアーティストたちが採用しているので、ぱっと思い当たりませんでした。不覚です。なにかこう、抽象的な曲を思い浮かべているのかな、とも思ったのですが……。でも、スピッツのことですから、他のアーティストの方針をディスるなんてことはありえないので、自分たちの楽曲のことを指しているんだろうな、とすぐに思い当たってしかるべきでした。なぜか気が付きませんでした。答えが問いに書いてある国語の問題をミスったみたいで、なかなか悔しいです笑
「青い車」にある矛盾って、どういうことなんでしょう?
私も「青い車」を独自に解釈してみたんですけど、矛盾らしい矛盾は見当たりませんでした。ということは、たぶん私の解釈が間違っているのでしょう…。
あるいは、「青い車」は、新しい何かを見つけにいこう、という前を向いた曲なのに、死を暗示しているという後ろ向きな曲だと世間に認識されてしまっていることを、矛盾と表現しているんでしょうか。
もっとも、歌ウサギの歌詞は、歌を歌っているマサムネさん目線の曲です。そのマサムネさん目線でいうと、「青い車」をこの場面で歌うのは、「死の曲っぽいと思われてるかもしれないから、相応しくないなぁ」と判断したのかもしれません。この場面では、君に触れたときの感動を表現する、もっとふさわしい曲がある。そういうことなのだと思います。
歌ウサギの難解そうな歌詞を解釈するには「青い車」じゃない方向の曲だ、ということを切り口にしてみると、いいかもしれませんね。
こんなふうに、マサムネさんの動向がわかりましたら、収集していきたいと思います。
さて、前置きが非常に長くなってしまいましたが、歌ウサギの解釈をしてみましょう。
「青い車」じゃないほうの方向性、という視点でこの曲を視ますと、楽に解釈できます。
むしろ、あぁ、青い車じゃない味付けで考えればいいのね、と、逆に「青い車」に固執しすぎることを懸念したほうがいいかもしれません。
「青い車」あたりでは、マサムネさんは、否定語を味付けのように使うことを得意としていました。「チャチな飾りほど美しく見える光」みたいに、少しの否定的なワードを盛り込むことによって、逆にリアルさを表現している、みたいな。特に「青い車」のような透明感あふれる曲の場合、この「チャチな飾り」はとても重要な役割をこなしてくれています。
そんな意味で「歌ウサギ」を眺めてみると、どうでしょう。
「こんな気持ちを抱えたまんまで」
「例外ばっかの道で不安げに固まった夜」
「ひどく無様」
「清々しい堕落」
「どんだけ修正加えてみても美談にはならない」
「さんざん転んで色々壊して」
否定語ばかりが目立ちます。むしろ、不安な気持ちを表現する言葉ばかりで構成されているといってもいいぐらいです。
では「歌ウサギ」は不安を表現した曲なのか、と問われると、誰もが違うと答えるでしょう。「歌ウサギ」は、彼女に対する、愛おしい感情を曲にした歌だと、すぐに答えられると思います。
なぜなら、そんな否定語ばかりで構成された曲は、すべて、
「何かを探して何処かへ行こう」とか そんなどうでもいい歌ではなく 君の耳たぶに触れた感動だけを歌い続ける
で一気に全部昇華されるからです。他の部分は、この部分のお膳立てなのです。これを言いたくて、マサムネさんはこの曲を作ったのだと思います。ここに言いたいことが全部詰まっているんです。
ここまで並べていた言葉の数々は、「君の耳たぶに触れた感動」を表現するためだったのです。
これ、すごい話だと思うんです。
この部分をうまく説明するのが、とても難しいんです。
否定語ばかりで構成されている曲、ということは誰でもわかることですが、じゃあなぜ、否定語ばかりで構成されたこの曲に、愛おしさを感じるのか。私には説明ができないのです。
「青い車」において使用されている技法は、絵画でいうところの、「赤いリンゴを塗るのに少しだけ青い絵の具を混ぜることで、リアル感を出す」技法です。真っ赤っかな物体に、あえて全然違う色をすこーしだけ混ぜることで、リアルに見えるようです。これは経験上、いたるところで使われている技法なため、説明しやすいですし、納得もしやすいですよね。
でも、「歌ウサギ」に使用されている技法は、どうでしょう? 絵画の例に例えるなら、「赤いりんごのほとんどに青い絵の具を使い、少しだけ赤を混ぜることで、よりリアルなリンゴを表現する技法」とでも言えばいいんでしょうか。言ってることが無茶苦茶ですよね。本当にそんな技法が存在するんでしょうか。
絵画の中には存在しないかもしれませんが、マサムネさんが作る歌詞の中には存在しているんですね。
技法もここまでくると、論理的に説明ができない範疇になってきます。自分でも、何言ってるのかよくわからなくなってきています。
でも、そんな未知の技法を使いこなして、なんだかんだで最後には私たちに、伝えたい気持ちをズバンと伝えてくる。これは不思議としか言いようがないですね。
敬意とか勇気とか生きる意味とか 叫べるほど偉くもなく さっき君がくれた言葉を食べて歌い続ける
ここは、ダメ押しの一節ですね。
この一節を聴いて思い出したのは、野村美月先生の「文学少女」シリーズです。
文学部に所属する男子高校生の主人公と、その彼が書いた原稿用紙を食べることで、「苦い」とか「甘い」とかの味覚を感じることができる不思議な女子高校生との交流を描いた作品です。主人公が書いた作品は過去に一度ベストセラーになったけれど、その後のスランプ状態を克服できず苦しんでいました。そんな彼が書きなぐった、満足とは言えない出来の作品を、文学少女がむしゃむしゃ食べて「苦い」とか「甘い」とかの感想を言うことが、彼らの日常となっていました。
歌ウサギは、何かこの物語と、共通する部分があるんじゃないかと思いました。
そう、君だけのための歌であるならば、誰かに対する敬意とか、勇気とか、そういうものって実は必要じゃなかったりするものですよね。それはみんなに向かって歌う歌になら必要なものかもしれませんが。あと生きる意味も、不要とまでは言い切れませんが、目の前にいる人に向かって「君はぼくの生きる意味だから」っていうのは、なんか重たいし、恩着せがましい感じがします笑 少なくとも、日常の一コマにでてくるワードじゃありませんよね。どうせなら、もっと適切な言葉があったりします。愛おしさを伝える、適切な言葉が。
さっきの「文学少女」にでてくる主人公の男子高校生も、この言葉選びにたびたび失敗をして、文字通り、苦い思いを文学少女にさせたりしています。でもそれは、この高校生が、ちゃんと「文学少女」に向き合えていなかったからなんですね。
この主人公の高校生、最後までずっと素直になりきれなかったんですけど、もしかすると、歌ウサギは、この高校生と文学少女の、もうひとつの可能性だったんじゃないかって、個人的には思っています。
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