こんにちは。八百屋テクテクです。
今回は、スピッツ「未来未来」について解釈していこうと思います。
「この曲は、いったい何の曲なんだろう???」と、みなさん疑問に思っていると思います。恋愛の曲とか失恋の曲とか、そんなふうには解釈できないんですよね。
あと、民謡で有名な朝倉さやさんが、「あぁああああぁあああぁあぁぁああああ」と終始曲を民謡調に彩ってくれています。民謡とは、いわずもがな、いにしえより語り継がれてきた音楽で、日本では節、唄、音頭や島唄、盆踊りの歌などが該当します。
いにしえを連想させる曲にしておきながら、「未来未来」というタイトルをつける。これって、矛盾していると思いませんか? 現在からみると、民謡は過去のものであり、未来とは反対の方向にあるものだからです。
ですが、この矛盾は、ある条件のもとでは矛盾しません。
そうです。現在の軸を過去にして、そこから現代そして未来を見つめた場合です。つまり、この曲は過去が舞台であると捉えると、うまく解釈できるんじゃないかなと思うんです。
過去であることを前提にして曲を見つめなおすと、どういうことになるのか。
順番に見ていきましょう。
安全に気配って 慎重にふるまって
矛盾を指摘され 憂鬱の殻に入れば
これは一体、なんのことでしょう? 安全に慎重にふるまっていたつもりだったけれども、実はそのことがかえって周囲に大きな被害をもたらす結果になってしまい、どうにもならず、ああもういやだ、と自分の殻に閉じこもってしまった、ということを表しているのではないかなと。
現代の私たちの周りでもよくある話ですが、大昔の神話の中にもこういう事象があります。天照大神(アマテラス)による、天の岩戸引きこもり事件がそれです。
これは、太陽の神様であるアマテラスが、自分の兄弟であるスサノオをかばったところから始まります。スサノオは乱暴者で、各地で狼藉を働いていましたが、「その狼藉にはそれなりの理由があると思うから、罰を課すのはまだ様子をみよう」と、慎重に気を配っていました。ところがアマテラスの見立てとは違い、スサノオはただの乱暴者でした。何をしても罰せられないスサノオは調子に乗り、アマテラスのいた機屋まで襲いました。この事件で、アマテラスと仲の良かった侍女が死んでしまいます。
自分の慎重さが、大事なひとを殺める結果となってしまったのです。
アマテラスが怒ったのは、自分自身に対してでしょう。誰も入ってこれない、天の岩戸に引きこもってしまいました。
外は明るいの? 文明は続いているの?
竹の孫の手で 届け銀河の果て
太陽の神様が岩戸に引きこもったことで、世界は真っ暗闇になりました。外が明るいのかも、文明が続いているのかもわからない状態になりました。
その一方で、アマテラスは、こんな嫌な世界は見捨てて、別の宇宙で新天地を作ろう、と考えていたのかもしれません。「竹の孫の手」と形状が似ているもので、「天沼矛」というものがありますが、アマテラスの両親がこの矛で海をかき混ぜて、日本列島を作り上げたという伝説があります。天沼矛は、さかさまになって天孫降臨の地、高千穂峰に突き立てられています。まるで、遠い銀河の果てに地上を作ろうとしていたのかのように。
蛍光イエローの石ころ拾った ah
ラッピングしてきちんと贈ろう
「蛍光イエローの石」は、アマテラスの持ち物である三種の神器のひとつ、八尺瓊勾玉のことなんじゃないかなと。この勾玉はメノウ製であるとされ、鮮やかな赤または黄色に輝いています。
この勾玉は、ほかの神器と同じく、神武天皇の曽祖父にあたる人物に贈答され、それから代々天皇家に受け継がれています。
このエピソードを歌詞の中に挟み込むことは、何を意図したものかはよくわかりませんが、たぶん「神話っぽい雰囲気を醸し出したい」という効果を狙ったものなのかもしれません。
虐げられたって 思い込んでたって
虐げていたのは こっちの方だなんてさ
「虐げられたと思っていたら、実は虐げていた」というのは、先ほどのアマテラスの天の岩戸引きこもり事件を表しているような感じがします。
アマテラスは自分を責めているつもりですが、それがかえって周りに大迷惑をもたらしてしまいました。
遠くへ飛びたいとか 希望し必死こいてた
足元を見れば ほとんど同じ位置だ
基本的には、神様というのは成長しません。完全な存在なので、成長のしようがないんですよね。なのでスサノオの乱暴が治ることもないですし、ゼウスの浮気癖が治ることもありません。
成長したいとどんなに願っても、成長することなく、自分の立ち位置に留まり続ける。それがいにしえの神々という存在なのです。
新しい名前をすぐください ah
あきらめずに
なので、成長したかったら、改名しなくてはいけません。まったく新しい存在になるためには、古い名前を捨て、新しい名前を賜る必要があるのです。
これもまた、いにしえの文化であると言えるでしょう。源義経は、牛若→遮那王→九郎義経と名前が変化しましたし、古代中国では本名に加えて、幼名、字を、その時々により新しい名前を賜っています。例えば三国志の英雄曹操は、幼名を阿瞞、字を孟徳といい、亡くなった時につけられる諡号は武皇帝となっております。
また現代日本においては、私たちは普段は名前で呼ばれず、「お父さん」「お母さん」「お姉ちゃん」「お兄ちゃん」「先生」「部長」「課長」「社長」……など、役割で呼ばれます。「お父さん」と呼ばれることで、「お父さん」になる、という自覚が生まれて、本当にお父さんになる、ということもあると思います。まさに、「名は体を表す」ということでしょう。
神様は通常、これがありません。神様に名前を下賜できる、上位の存在がないのが、その理由の一つです。なので、アマテラスがどんなに努力したとしても、もはやアマテラス以外の何者にもなれないのです。
こじ開けて 未来未来
今だけで余裕などない 嫌い嫌い
「神様は、そのほかの何者にもなれない」というのが定説ですけれども、これを知恵とパワーでひっくり返したのが、「岩戸引きこもり事件」でした。
アマテラスは、神様の中でも最上位にあたる存在でした。まさに神様の中の神様でした。このアマテラスが引きこもってしまったのは、すなわち、世界が死に絶えることを意味していました。
暗闇に残され、危機に瀕した神様は、みんなで集まって知恵を出し合いました。まずアメノウズメという美女が裸に近い格好になり、踊りました。これを見て、神々が大笑いしました。エロいことで笑うとは男子中学生みたいですが、神話におけるエロにはそういう側面があります。
この笑い声が、岩の向こう側から聞こえてきたので「はて、暗闇のはずなのに、どうしてみんな笑っているのだろう…?」とアマテラスが気になり、ちょっとだけ岩を開け、外の様子を伺いました。
そこに声をかけたのは知恵者の神様でした。「アナタよりすごい神様が来てくれたので、みなさん喜んでるんですよ」と言いながら、鏡を差し出しました。そこに映るのは、反射したアマテラス自身の姿。アマテラスは上位の神様である自分自身の姿を見て、本当に上位の神様が岩の外にいるのだと勘違いしてしまったのです。
もっとよく見ようと岩を大きく開けた時、岩陰に潜んでいた怪力の神様が岩をこじ開け、アマテラスを引きずり出しました。
これにより、地上に太陽が戻ったのです。
滅びゆく神様たちが力を合わせて、知恵とパワーで、閉ざされていた未来をこじ開けた、という話です。
そして、「こじ開けて」と懇願しているのは、人間が神様に対してです。
「嫌い嫌い」と反発しているのは、神様側の感想でしょう。「天岩戸の時は、こじ開けることができたじゃん。同じように、人間社会も助けてよ」と、神頼みをしている人間に対して、「嫌」と言っています。なぜなら、今だけで余裕なんかないからだと。
「未来未来」と「嫌い嫌い」が韻を踏んでいるのは、このためです。神様は、本質的には未来を嫌い、未来を形成しえない存在なのです。
未来は自分の手でつかみ取れ、俺たちを頼りにするな、と神様に断られている様子がうかがえます。
未来を形成するのは、成長のできる種族である人間だけなのです。
禁断の実をもいで 果汁を一気飲んで
あまりの美味しさに 境目がぼやける
禁断の実は、西洋の神話です。エデンの園にて禁断の果実を食べたアダムとイブは、それにより知恵を得てしまったため、楽園を追放されました。知恵とは、個人の利益を追求するためのものであり、全体の調和を重んじる神々の世界では、悪であるとされています。アダムとイブは知恵という悪に染まったために、堕落してしまった、と神に認識されたのです。
1000年以上前から 語り継いだ嘘が
人生の意味だって 信じて生きてきたが
「語り継いだ嘘」というのは、宗教のことじゃないかなと。宗教、ときいて思い浮かぶような主な宗教は、どれも1000年以上前から存在しています。
この宗教の教えは、神様がいることが前提になっております。その神様が言うのだから、真理であり真実であるのだろう、と。
勧善懲悪ならもう要らない ah
小さな波紋が
宗教は、もとい、神様は、「勧善懲悪」を教えています。この結果、人々は世界中で戦争を繰り広げてきました。「だって神様がいってるんだもん」を名目に、違う宗教や違う民族を攻撃し、弾圧し、粛清してきたのです。
人間は、ここで、「勧善懲悪ならもう要らない」と言っています。自分たちの平和な未来のために。
広がるよ 未来未来
意志で切り拓いてみたい 時代時代
溶けた愛が流れ始めて 未来未来
誰も受け止められない 君以外
人間が、神様に頼らずに、自分の意思で時代を切り開いていこうとすることで、小さな波紋のように未来が広がっていくのです。
「溶けた愛」とは、石油のことかなと。石油は宗教的には、「神の血液」とされています。限りある神の血なので、使うな、と。あるいは、もっと高い金で買え、と。
これが神様目線だと捉えると、どうでしょう? 人間の発展のため、自分の腕にナイフを突き立てて、血液がドクドクと流出させ、提供した。これは、人間に対する愛と言えなくもないでしょう。でも、この狂気的な愛を受け止められる人間は、どれだけいるでしょう?普通の人間には、そんな重すぎる愛は受け止められません。必ず狂います。実際、石油をめぐって、多くの人々が、国々が、戦争をしてきました。神の愛は、多くの人々を殺してしまいました。
「君」にあたる人は、今現在の世界には、どこにも存在しえないのかもしれません。今の世界は、古いものと新しいものが、混在しているためです。
「君」は、未来にいきる、大きく成長を果たし、石油を平和で文化的に使いこなせるようになった人類のことを指しているのかもしれません。
未来は泣いてんのか 未来は笑ってんのか
影響与えようよ 殻の外で
ここも、神様目線だと思います。
神様自身は成長することはできませんが、成長する人間を見守ることはできます。
未来がいいものになるか、悪いものになるかは、人類が選び取っていくものです。この決定に対して、神様は誘導することはできません。でも、影響を与えることはできるかもしれません。
ただ見つめるだけ。それが、未来における神様の役割だと、この詞を通して言っているように聞こえるのです。
同時に、未来に向かって生きるということは、自分の意思で切り拓いていかなくてはいけないことなのだと、教えてくれているような気がするのです。
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