こんにちは。八百屋テクテクです。
今回は、スピッツ「手鞠」について解釈していこうと思います。
この曲が収録されているのは、アルバム「ひみつスタジオ」ですが、「ひみつスタジオ」に収録されている曲たちはどれも、昔作った曲のアンサーソング的な内容になっていると感じるのです。
例えば、「i-O(修理のうた)」や「跳べ」の項目で解釈しておりますように、「なにか現状に満足できないことがあった→でも未来は明るいよ」的なメッセージ性が感じられるのです。
明るい曲の背景にある、満足できていなかった現状。これが今回のアルバムに共通して語られているような気がするのです。
今回の曲の「手鞠」には、いったいどんな「現状」が潜んでいるのでしょう?
そして、その過去を、どう捉えて、今を生きているのでしょう?
今回は、そんな目線で「手鞠」を解釈していきたいと思います。
自分を探す旅の帰りに 独りが苦手と気づいて
手に入るはずだった未来より 素朴な今にありついた
見栄張ってた頃の魂なら 近づけなかったかも
この指を伸ばすよ
「自分を探す旅の帰り」からはじまるこの曲。普通の曲なら、何かが始まるワクワク感を表現するのがセオリーだと思うんですけど、この曲は、何かが終わった後であることが明示されています。自分を探す旅、は、私たちが常に行い続けていることです。「自分はいったい何者なのか」「自分にはいったい何ができるんだろうか」みたいに、ひとりで遊んでいる時、旅行している時、仕事している時、ありとあらゆる場面で、常に問い続けていることと思います。
この詞にでてくる彼は、その自分探しの旅の岐路についていると言っています。つまり、自分探しの旅があらかた終了した人というわけです。自分が何者であるかを、自分である程度理解したというわけです。裏を返せば、自分の能力の限界に気が付いている人、というわけですね。若い人は成長をし続けているために、自分の能力の限界をつかむことができません。成長の限界を知った人が、自分を理解できるというわけです。
こう見ると、この詞は、マサムネさんぐらいの年齢の人なのではないのでしょうか。あるいは、もう少し下かもしれません。お父さん世代、って感じですかね。少なくとも、未来と可能性にあふれた青少年ではなさそうです。
その、「自分の限界に気が付いたお父さん」は、「独りが苦手」と気が付いたため、「手に入るはずだった未来」を捨て、「素朴な今」にありついたそうです。
このシチュエーションで、ちょっと思い当たるフシがあります。これは、アーティストを諦めた人の人生なんじゃないかなと。
アーティストは、つねに孤独です。自分の殻に閉じこもって、もくもくと創作活動を行わなくてはいけません。いやもちろん、結婚して子供をもうけて、幸せな家庭を築きながら、芸術家として大成した人もいるでしょう。でも多くは、そうでないように思います。芸術を突き詰めながら、家庭を持って立派にお父さんを務めることは、とても難しいと思います。宮崎駿さんや司馬遼太郎さんなどは、後世に名を遺す大天才ですけれども、お二人とも息子の教育を何もしなかったというのは有名な話です。
もし、宮崎駿さんや司馬遼太郎さんが家庭を大事にして「育休をとります」なんて言っていたとしたら、今日の大成はなかったかもしれません。彼らの作品群は、精神力を削って削って、いろんなものを犠牲にした上に完成しているものです。
マサムネさんもまた、後世に名を遺す天才のひとりだと思いますが、彼の作品群もまた、先達と同じように、身を削って成り立っているものだと思います。アルバム「フェイクファー」など、悪魔に魂を捧げるぐらいのことをしないと、完成しなかったんじゃないかなと。毎回毎回、こんなものを作っていたのでは、精神が持たないんじゃないかと思うのです。ましてや、家庭なんて持って、他人に気を遣う余裕なんてない、と。
でも、もしマサムネさんが結婚して、子供をもうけて、「家庭のことしながらスピッツやるのは精神的にしんどいので、辞めて別の仕事します」なんていうことがあったとしたら…。年齢的に、アルバム「三日月ロック」あたりでスピッツの活動にめどをつけて、引退していたとしたら…。
「手に入るはずだった未来」を捨て、「素朴な今」にありついた。つまり、「三日月ロック」以降の「魔法のコトバ」「君は太陽」「みなと」「雪風」「歌ウサギ」といった名曲を作れる自信はあったけれど、それらをすべて捨てて、妻と子供と幸せに暮らすという、平凡な未来を選択したマサムネさん。
「手鞠」は、そんな、違った未来を歩いたマサムネさんの曲なんじゃないかなと。
可愛いね手鞠 新しい世界
弾むように踊る 君を見てる
この流れでサビをみてみると、「可愛いね手鞠」は、手鞠だけがかわいいわけではないということがわかります。
「手鞠」で遊ぶのは、主に幼い子供です。つまり、この子供は、アーティストを諦めた「新しい世界」の、マサムネさんの子供ということになります。
この子供が、手鞠でヨチヨチと遊んでいる様子を、ただ眺めてみる様子になります。
いろんな可能性を諦めて、今の幸せがある。そんな世界に思いを馳せている様子がうかがえます。
常識を保つ細いロープで 身体のあちこち傷ついて
感動の空気から逃れた日 群れに馴染めないと悟った
誰のことももう愛せないとか 決めつけていたのかも
その姿真似るよ
この場面も、アーティストとして活動していた頃の様子が描かれているんじゃないかなと。
映画監督の宮崎駿さんのお話を聴いていると、とくにそう感じます。監督としてチーム全体の調整をしなくてはいけないけれども、自分の表現したいこともアウトプットしていかなくちゃいけない。作品を良いモノにしようとすればするほど、軋轢がうまれてキツくなる。なので、宮崎駿さんの現場では、争いが絶えなかったそうで、若くて繊細なアニメーターなどは、しょっちゅう逃げ出していたそうです。ついていけない、と。
宮崎駿さんほどではないと思いますが、スピッツとしての演出を考えた時に、マサムネさんの苦労は相当なものだと思います。マサムネさんとしては、自分の殻に籠りっきりになって、天才性を発揮するだけならまだ楽ですが、それに加えて、何十人といるスタッフと一緒にお仕事をしなければならない、となると、気苦労が絶えないでしょう。このことが、「身体のあちこち傷ついて」いるということなのだと思います。
「感動の空気」とは、みんなで一緒に仕事をして、何かを成し遂げたときの空気でしょう。みんなで、ウェーイ、って言っている時。スピッツに携わるスタッフは大勢おりますから、中には性格の悪い人もいるでしょう。「スピッツはワシが育てたんや」と大威張りする会社の偉い人とか、「俺スピッツと知り合いで、会わせることができるんだぜ~」と外で自慢する人とか。集団で仕事をするというのは、そういう人たちにも気を遣って、上手に付き合っていかなくてはいけません。が、性格の悪い彼らが、スピッツの興行に感動しているのを横目でふと眺めていた時「俺、何やってるんだろう…」という、しらけた気分に陥ったのではないのでしょうか。
こういう、「群れ」として仕事をするうえでどうしても発生する悪い部分に「馴染めない」と悟り、だからこそ「素朴」な幸せに憧れる、という流れになっております。
可笑しいね手鞠 変わりそうな願い
自由気ままに舞う 君を見てる
可愛いね手鞠 新しい世界
弾むように踊る 君を見てる
手鞠で遊んでいる我が子を眺めてみる様子です。その中でも「自由気まま」という言葉が、前の部分の、仕事でいっぱいいっぱいになっている状況との対比になっているような気がします。
もし、結婚して子供がいたら……。そんな状況に思いを馳せている様子がうかがえます。
定められたストーリーにも 外側があるのかも
悪い夢溶かすよ
さて。ここです。
「定められたストーリー」とは、これまでの解釈を踏襲するなら、今までのマサムネさんが歩んできた、スピッツ人生ということになります。
この、スピッツに込められた思いというのは、他の曲にて結構露出させている、と私は解釈しています。ロビンソン、えにし、俺の赤い星、などは、「バンドとして売れたい」という気持ちが前面にでている詞だと思います。
でも、「バンドとして売れたい」というのは、ひとによっては「悪い夢」となります。一般人が天才の真似をして、「バンドとして売れたい」だなんて妄想するのは、悪い夢そのものでしょう。才能もないのに、才能があると信じ込むのは、身の丈に合わない高い買い物をするのと同じです。夢で気持ちよくなった分、現実でそのツケを支払わされます。その夢を追い続ける期間が長ければ長いほど、借金が重くのしかかってくるのです。
マサムネさんはスピッツとして成功しましたが、もし、ロビンソンでブレークしない未来があったとしたら、どうでしょう? この場合、「バンドとして売れたい」は、実現可能な目標ではなく、実現不可能な「悪い夢」になります。
あるいは、「売れたのは運が良かっただけで、特別な才能なんてないよ」と、この期におよんで、いまだに自分を低く見積もっているのかもしれません。実現可能な目標でも、「荷が重い…」と感じる場面もあるでしょう。
この場合、本来なら現実であるはずの「スピッツとしてブレークしている自分たち」の外側にある、「外側の素朴な夢」こそが、癒しとなり、悪い現実を癒してくれる妄想になるわけです。
好きだよ手鞠 清らかなせせらぎ
バレバレの嘘に笑う 君を見てる
可愛いね手鞠 新しい世界
弾むように踊る 君を見てる
かなり思ってたんと違うけど
面白き今にありついた
「バレバレの嘘」とは、妄想の中の自分の子供に「ねぇお兄さんは、私のパパじゃないでしょ。こんな妄想して、何をしているの」と笑われているのではないかなと。
妄想の中だからこそ、清らかなせせらぎが聞こえたりと、やたらと美しい世界になっているのだと思います。
最後の「面白き今」とは、なんでしょう?
「バンドとして売れたい」という夢を追いかける自分。その結果、何とか生活できるようにはなっているけれど、夢のためにいまだに苦労している自分。そこから逃げるために、妄想の中にいる自分の子供を見つめる自分。
これらが手毬のように一体となっている、マサムネさんの現在の状況を表しているのではないのでしょうか。
「アーティストとして売れっ子になって、曲を発表するたびに大ヒットし、その印税で派手な高級車を乗り回し、夜はザギンでシースーを食べ散らかし、ドンペリを浴びるように飲む」という生活ができるのかと思いきや、「身を削りながら曲を書き、売れ行きに悩み、スタッフやイベンターとの付き合いに疲労し、体調を管理するためにも健康的な生活をしなければならず、野菜や果物、オリーブオイルにやたらと詳しくなる生活」というのが現状。そんな中、もしアーティスト辞めてたら、どんな未来になっていただろう、だなんて思いを馳せてしまう。そんな現状。「かなり思ってたんと違う」というのは、歌詞を読み解くと、そうだろうなぁ、と思わざるをえません。
でも「面白き」とも言ってくれています。これは、私たちファンにとっては救いになる言葉ですね。「現状大変なんですよ」で終わっていると、私たちも不安になってしまいますが、その現状を楽しんでいる部分が見えると、ほっとします。
手毬というのは、弾んだり、あちこちいったりしますが、もしかするとマサムネさんのこころを手鞠に例えて、浮き沈みを表している曲なのかもしれません。
スピッツが好きな八百屋さんの記事一覧はこちらからどうぞ↓
Comments