こんにちは。八百屋テクテクです。
今回は、スピッツ「子グマ!子グマ!」について解釈していこうと思います。
この曲は、結論から申し上げますと、自分の子供の成長を見守る話なのだと思います。
子グマは、自分の子供のことを表現しています。幼い子供って、天使ちゃんとか、子猫ちゃんとか言われたりしますけれども、実は暴れまわるし、言うこときかないし、体重だけはいっちょまえにドンドン重たくなっていく……リアルなところでいうと、子グマ、と表現したほうが正解でしょう。世話をするのがとてもとても大変です。野生動物に人間の教育を施そうと思っても不可能なように、人間の子供にもまた、教育を施すのが想像がつかない時期だってあるでしょう。昔の教科書かなにかに載っていた野口英世の少年時代では、祖父が厳しい人で、小学校に入る前から毎日正座させられて、「論語」を暗唱させていたそうです。「師、のたまわく、」ではじまる、アレです。あれは野口英世が別次元の天才だったからできた話なのであって、普通の子供には無理な話です。その年齢の子供なんて、じっと座っていることすら難しいですからね。
そんな、言うことを聞かない、世話のやけるヤツだと思っていた自分の子供が、いつの間にか成長していて、「県外の大学にいって、一人暮らししたいと思ってる」だなんて言い出したら、どうでしょう?
野生の子グマのようだと思っていた自分の子供が、いきなりすごい人間みたいなことを言いだしたとしたら……。嬉しいやら、びっくりするやら、困惑するやらで、いろんな感情が渦巻くのではないのでしょうか。
これを踏まえて、詳しく歌詞を追っていきましょう。
はぐれたら 二度と会えない覚悟は
つらいけど 頭の片隅にいた
半分こにした 白い熱い中華まん 頬張る顔が好き
「子供は大人になれば、親離れするものだから」という一般論は、ひとりの親として、頭の片隅にちゃんとあるんです。
「二度と会えない覚悟」は、「成人した子供は、ちゃんと一人前の人間として扱わなくてはだめだ」という意識なのだと思います。この子は、自分のそばにいつまでもべったりくっついている子供ではなく、社会人として姿勢を正して、会社でテキパキ仕事をこなし、自分の知らないところで恋愛をこなし、ひととしてマトモな道を歩いていく人間になるのです。
でも今は、半分こにした中華まんを、無邪気に、美味しそうに頬張っている姿をみて、はぁ~かわいいなぁ、とわが子をみて、思っています。まだまだ、そんな瞬間は先だな、とも思っています。
喜びの温度はまだ 心にあるから
君が駆け出す時 笑っていられそう
「子供の自立の際は、でも、悲しくないかもしれない。こうやって楽しく過ごした時間を、この子はいっぱいくれたから」
トロフィーなど いらないからこっそり褒めて
それだけで あと90年は生きられる
仕事じゃなく 少しサイケな夜 バイバイ僕の分身
今までは頭の片隅で懸念していただけの事態に、ここからは、直面していく場面です。
「お父さん、お母さん、お世話になりました」と、子供に切り出されました。ここでの「仕事」とは、日々のルーチンのことだと思います。仕事も含まれますが、家事に育児にと、普段となにも変わらない日常を過ごしていたのでしょう。でも今夜は、「サイケ」な夜となりました。子供の自立という事態にいきなり直面して、びっくり仰天している場面です。
子グマの状態から、ここまで育ちました。育児に関しては、それこそトロフィーで賞されてもおかしくないほど大変なことですが、でも別にトロフィーじゃないんですよね。周りから、友人から、実の両親から、配偶者から、あるいは当の子供から、「頑張りましたね」と褒めてもらえれば、十分喜べるものです。
あと90年という時間なのは、絶妙な時間となります。現在の平均寿命が男性で82歳、女性で88歳とされています。仮に子供が女性だとして、現在18歳の子供が、その後死ぬまであと70年あるとしたら、子供の活躍をすべて眺めて、なおかつ20年の余裕があります。もっと未来には健康寿命も延びているので、仮に子供が100まで生きるとしても、まだ自分のほうが8年ほど長生きする計算になります。ある程度長生きになったとしても、それ以上に長生きをして、子供を看取るのが可能な時間設定だと言えるでしょう。
あと、ここまできて、今更言うまでもないことかもしれませんが、ここで「僕の分身」といっています。子供が男の子だろうと女の子だろうと、他人からみて「似てないですね」と言われようが、まぎれもなく、自分の分身であるといえるでしょう。
幸せになってな ただ幸せになってな
あの日の涙が ネタになるくらいに
間違ったっていいのにほら こだわりが過ぎて
君がコケないように 僕は祈るのだ
「幸せになってな」の部分は、純粋に、旅立つ自分の子供の幸せを祈っている場面だと思います。純粋な、親としての愛情を感じます。
この別れの際は、親は涙を流すでしょう。悲しいやら、嬉しいやらで。でもそんな涙もネタになるぐらい、子供と「あの時は、こうだったね」と笑い合えるぐらいには、幸せな生活になるように願っています。
自分のもとを離れていく子供ですが、でも親の目線からすると、まだまだ危なっかしいように思えます。こだわりが強すぎて、どっかでコケそう、とか思っています。
そうならないように、今は、祈ることしかできません。
子グマ!子グマ!荒野の子グマ
おいでおいでするやつ 構わず走れ
子グマ!子グマ!逃げろよ子グマ
暗闇抜けて もう少しだ
これは、子供が一人暮らしするうえで、危機に直面している場面だと思います。
ちょっと古い話かもしれませんが、私が大学生の頃には、アパートに入居するやいなや、玄関のピンポンを連打する新聞の販売員とかいまして。んで玄関をあけると、コワモテのオッサンがとびきりの笑顔で、「新聞とってくれよ。学生みんな、うちの○○新聞だよ。お前1年か、じゃあ4年契約な」といきなり言うわけです。「いえ、新聞は必要な時に買いますし、なにより大学図書館で閲覧できますから…」なんて言っても、逃がしてくれません。逃がさないよう、マニュアルがあります。「必要な時に読むのなんて、そんなの卑怯やぞ。みんな金払って読んでるんだから。そう思わんか? とにかくこのアパート全員、○○新聞やし、入ってないのお前だけやぞ」こう迫られたら、親元を離れたばかりの子供に、対応できるでしょうか? アパートにいる全員が全員、特定の新聞社の新聞を読んでいるなんてことはありえないんですけど、嘘を嘘と見抜ける力が、はたして子供にあるでしょうか?
こういう勧誘が、しょっちゅうありました。新聞社はまだ真っ当な部類だと思いますし、そもそも社会を監視するジャーナリズム精神がありますから、コンプラ違反の勧誘なんてしているはずがないと信じているので、例として出したんですけど、本当は新聞の勧誘なんかよりもたちが悪い、それこそ詐欺企業、悪徳企業が有象無象蔓延っているわけです。そいつらが毎日、かわるがわるアパートの玄関のピンポンを押しに来て、あの手この手でお金を巻き上げようとしてきます。子グマは、対応に迫られています。
これを、陰から眺めているのが、この場面なのだと思います。
新聞のコワモテの販売員が、にっこり笑って「おいでおいで」と勧誘する場面。そいつから「逃げろ!」とアドバイスしたい自分。でも子グマには届かず、ただ見守ることしかできない。そういう場面なのだと思います。
いっぱい並べた 夢・希望・諸々 バイバイ僕の分身
喜びの温度はまだ 心にあるから
君が駆け出す時 笑っていられそう
惜しかった思い出も 感動的に刻むから
君が遠くなっても 笑っていられそう 強がっていられそう
今まで「子グマ=自分の子供」として解釈してくれば、この辺りは、そのままストレートな表現として、解釈できるものと思います。
という感じで、解釈してみました。
別れの歌ではあると思うのですが、「別れ=悲しい」というばかりではありません。人間のもつ感情はもっと複雑です。
恋人同士の別れの曲は巷に溢れていますが、成人した子供の旅立ちを祈る曲は、そうそう見当たりません。なぜなのでしょう?
そんな中、我々のスピッツが、「こんなの、ありまっせ」と提案してくれたのが、この曲なのだと思います。
この曲のように、スピッツは、いろんな状況を想定した曲を作ってくれています。よく「性愛と死がテーマ」とか言われますけれども、全部が全部、そのテーマに沿っているというわけではありません。
なので、「この曲は、いったい何がテーマなのだろう?」という観点で曲に触れてみるのも、新しい発見があって、楽しいかもしれませんね。
そう、私は思います。
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