「夏が終わる」は、スピッツの名曲として知られる曲です。
アルバム「Crispy!」に収録されている曲の一つで、シングルカットなどはされていないので対外的な知名度はそれほどでもないのですが、スピッツを聴きこんでいる人にとっては、ひときわ存在感のある曲として知られています。
試しに「夏が終わる」で検索してみてください。検索の一番上に、この曲がヒットします。
これ単純にすごいなと思うんですよ。本当に。
八百屋さん視点で言うと、「夏が終わる」って、生鮮食品販売業者、特に青果物小売業者にとっては重要なポイントです。売れるものが一気に変わります。気温の変化もあり、お客様のニーズが一気に変わります。なので、どのタイミングで夏が終わるかを見極めることが、とても大事になってくるのです。私たちのような八百屋さんだけでなく、衣類販売業者だって、そうでしょう。夏が終わるタイミングというのは、季節を気にする人々にとっては、とても重要な項目なのです。
スピッツを聴いている人って、それなりにいると思うんですけど、さすがに日本全国民が聴いているわけじゃないと思うんです。一方で、野菜を食べない人はいないと思いますし、服を着ない人もいないと思うんです。私たちの普段の生活の上で、野菜や衣料への関心が占める割合というのは、スピッツよりも、はるかに多いと思うんですよね。たいていの人なら。
にもかかわらず、「夏が終わる」で検索してみると、スピッツの曲が検索上位になるんです。
こんな、誰もが調べていそうなワードなのに、スピッツのアルバムのいち収録曲である曲が、一番上位にくる。これはすごいですね。
曲の存在感や認知度という意味でのすごさから解説しましたが、それはつまり、曲自体のすごさでもあるわけです。
なにがすごいって「夏が終わる」っていう視点が、すごいと思います。
普通、曲を作ろうと思ったなら、まず「君が好き」とか「愛してる」とか、自分の気持ちを表現したいじゃないですか。そして、その味付けとして季節などの情景を盛り込んでくるわけです。お料理に例えるなら、「君が好き」という感情表現が肉や魚などの具材で、情景は塩や胡椒などの調味料です。季節なんて、普通なら情景の、もっと細かい分類のひとつなので、例えるなら味塩コショウの中に入っている、アミノ酸ぐらいのものです。入ってるか入っていないか、よくわからないぐらいの程度にするのがオシャレだと、普通は考えるでしょう。
ところが「夏が終わる」は、そのタイトルどおり、「夏が終わる」ことを表現した曲なのです。この曲では、まず夏という大きな記号が、肉や魚としてドーンと調理されていて、僕や君の気持ちのほうが、アミノ酸になっています。入ってるかどうかわからないぐらいです。
夏をテーマにした曲を作ろうとしたなら、普通なら、夏の高揚感とか、寂寥感とか、人間の感情を入れたがると思います。でも「夏が終わる」には、そういった直接的な表現が一切でてきません。ただ、夏の景色を並べているにすぎないのです。
でも、そんな曲に、とてつもない寂寥感を感じるんです。
遠くまで うろこ雲続く 彼はもう 涼しげな襟もとをすりぬける
日に焼けた鎖骨からこぼれた そのパワーで 変わらずにいられると信じてた
「夏が終わる」の詞を眺めていて、最初に疑問に思うのは、冒頭の「彼」の存在です。ここでの「彼」とは、いったい何なのでしょう?
「彼」は、人間ではないと思います。人間には、襟もとをすり抜けたりすることができませんからね。
では、襟もとをすり抜けられるものって、何なんでしょう? 思いつくのは「風」ですが、風なら風と言い換えてもいいでしょう。音的にも問題ないはずです。ということは、風でもない。
というふうに、消去法で消していくと、ひとつ、考えられるものがあります。
それは、「視線」です。
「視線」のやつが勝手に僕の目を操って、君の開いた襟もとを眺めてしまったせいで、日に焼けた彼女の鎖骨が、僕には、はっきり見えてしまった、ということを言いたかったわけなんです。
自分の視線に「彼」と名付けてしまっているあたり、「いやぁ、僕は全然そういうつもりじゃないんだけど、でも彼が勝手に見てしまったんだ。彼がいけないんだ」と言い訳をしようとしていることがわかります。でも、そんな彼(視線)のおかげで、僕はちゃっかり君からパワーを頂いたりしちゃっています。なんてやつなんでしょう笑
この詞は、この後も、絵的な描写が続く一方で、音も匂いもでてきません。なので、この詞は、僕から独立した「視線」目線で書かれた詞であることがわかります。
またひとつ夏が終わる 音もたてずに
暑すぎた夏が終わる 音もたてずに
深く潜っていたのに
「深く潜っていたのに」これは難解なワードですね。
普通に読み取っていたのでは、うまく読み取れない部分だと思います。
地下に潜っていたのか? それとも潜水していたのか? なんて思っちゃいますよね。でも、それだと前後のつながりがよくわからなくなります。
でも、この詞の主人公は、「視線」です。
「深く潜っていた」というのは、視線のことだったんです。
僕の視線は、いったい、どこに潜っていたのか。僕は視線を、どこに潜り込ませていたのか。
こう考えると、なんとなく想像ができます。
それは、薄着している彼女の服の隙間なんです。
ここに、夏の間、ずっと潜り込むことができていたわけなんです。
でも、夏が終わることで、厚着になりますから、それもできなくなります。それが悲しい、と言っている詞だったのです。
いやいや、そんな不埒な歌だったのか、とお怒りの方もいるかもしれませんが、私は、実は、これとは少し違う解釈をしています。
本来サビにまでして言いたかったのは、「夏が終わる」ということです。「君の服の隙間が視れなくなって悲しい」という感情よりも、「夏が終わる」こと自体の悲しみのほうが強い、ということが、歌詞の配置的にうかがえます。
これは、一番最初に申し上げました通りです。この詞においては「夏が終わる」ということが一番言いたいわけで、その他の事象は、飾りとして、「夏が終わる」ことに対する寂寥感をサポートするものとして作用しています。
本当は、彼女と作った夏の思い出を懐かしがっているのでしょう。その思い出のほんの1ページに、ちょっと君の薄着の隙間がある、という具合として捉えると、よりマサムネさんの表現したかったことに近くなるのではないのでしょうか。
キツネみたい君の目は強くて
彼方の記憶さえ楽しそうに突き刺してた
軽い砂を蹴り上げて走る
濡れた髪が白いシャツはずむようにたたいてた
「彼方の記憶さえ突き刺してた」という表現は、「視線」目線でしか言い表せない表現だと思います。同じ視線だからこそ「突き刺す」ということがわかるのかなと。
「軽い砂を蹴り上げて」のところも「白いシャツはずむようにたたいてた」という表現も、とても視線的だと思います。そう言われただけで、情景がバッとすぐに想像できます。これはすごいです。実はめっちゃ工夫した部分じゃないのかなと、個人的には思っています。
冒頭のAメロで、これは「視線」主体の話なんですよ、ということを匂わせておいて、2番で、その描写を細かく丁寧に行う。マサムネさんの表現力、技術力を、しっかり感じられる部分だと思います。
いかがでしょうか。
スピッツの名曲、「夏が終わる」
その真意に、少しでも迫ることができたでしょうか。
私は詞のみを眺めて、「ここはこういう表現なんだな」ということまでしかしていないので、私の解釈というのは不完全であるという危険を、いつもはらんでいます。
サウンドを含めた曲全体での評価は、また違ったものになってくるかと思いますし、作詞作曲をしているマサムネさんなら、当然、曲全体として主張のバランスをとっているものと考えています。
この「夏が終わる」を詞だけで眺めると、「夏が終わることで、女性の薄着が見れなくなって残念」という、ある意味陳腐なものになってしまうかもしれませんが、そこに寂寥感のあるサウンドが加わることで、こんなにも支持される名曲になっているのです。
曲全体として眺めなければいけない、その代表的な曲が、この「夏が終わる」なのだと思います。
スピッツが好きな八百屋さんの記事一覧はこちらからどうぞ↓
Comments