こんにちは。八百屋テクテクです。
今回は、「俺の赤い星」を解読していきたいと思います。
この曲の一番にして唯一のポイントは、「俺の赤い星」ってなんだ? って話です。
この曲を聴いたことのあるみなさんなら、誰しも、一度は思ったことがあるはずです。「俺の赤い星」って、何を表しているものなんだろう、って。
これ、普通に使われている赤い星を、そのまま当てはめると、ちょっと意味が通らなくなりそうです。
赤い星で思い浮かぶものとしては、まず夜空の恒星を思い浮かべると思うんですけど、現れるのは一度だけだということはありません。雲のない夜天なら、何度も見ることができます。
また、赤い星は、共産主義圏で、シンボルマークとして使われておりますが、これもどうも違いそうです。誰にでも時が来れば、共産党員になるわけではないです。
誰にでも、時が来れば、一度だけ、現れるという「赤い星」
私はこれを、「自分たちの音楽が大ヒットすること」だと解釈しました。
サイモン&ガーファンクルという、アメリカのフォークソングユニットがおりまして。彼らが発表した「ボクサー」という曲と、なんとなく似ていると、個人的には感じました。
「ボクサー」はどんな曲かというと、貧困街で育った少年が生活のために頑張るも、やっていけない。ので、職を求めてニューヨークに出てきたけれど仕事がない。唯一声をかけてくれたのが、寒空の街かどに立つ娼婦だけで、でもそれに心を温められた、という、なんとまぁ救いのない話なんです。最後に登場するボクサーも、戦いに負けてばかりの屈辱の日々に耐えきれず「もうやめたい」と叫ぶほどです。そんな気持ちを抱えながらも、その場にとどまって戦い続けている、という話です。心が重たくなる話ですね。
ボクサーは、勝てばもてはやされます。名声も金も、すべてが手に入るといってもいいでしょう。みんなそれが欲しくて、ボクサーやってるんですから。でも、勝てないボクサーはどうでしょう? 負けの屈辱に、ずっと耐え続けなければいけないのです。
そんな胃もたれするぐらい重い話と、「俺の赤い星」との間に、どんな関係性を見出したのかというと、「俺の赤い星」の「俺」も、現状をなんとかしようとして、あがいている人なんじゃないかなと。でも、どうにもならず、あるはずのない「赤い星」とやらを空想し、それにすがって生きている。そんな情況が思い浮かぶんです。
何度も売れてやろうと試みるも、低空飛行をずっと続けていたスピッツ。ロビンソンやチェリーで大ブレイクする前は、いわば負け続けていました。次々とブレイクする同期や後輩たちを横目で見ながら、ずっとくすぶり続けていたんです。ボクサーの彼のように「もうやめたい」と心が折れたことだって、一度や二度ではないでしょう。
売れる曲を書いてみても、自分の信念を通してみても、何をどうしても、うまくいかない。これはもう、現れるのかどうかわからない「赤い星」にでもすがるしか、方法がないんじゃないか、という気持ちにでも、なっていても不思議ではありません。
結果的にいえば、「赤い星」という、得体のしれないものを追いかけてくれたおかげで、今私たちは、スピッツの楽曲たちを楽しむことができているわけですが。
でも、成功するかしないか、わからない時に、「赤い星」にすがるというのは、とても難しいものです。理性ある友人だったら、止めているでしょう。そんなことやってないで、真面目に働け、と。そして、本人だって、自分の能力よりも理性のほうを信じてしまったら、音楽をやめていたかもしれません。
この曲に、狂気のようなものが見え隠れするのは、そんな危なっかしい橋を渡る人間の心境を表したものだからです。
一度だけ現れる 誰にでも時が来れば
あくびするフリをして 空を見た
上記で考えてきたことを前提にすると、この最初の詞ですでに危うい思考が見え隠れします。
「一度だけ現れる誰にでも時が来れば」という部分は、妄想です。きっとくるに違いない、と、なんの根拠もないのに、そんな思考に陥ってしまっているのです。「この馬券は絶対に当たる」と、ギャンブルみたいな思考になってしまっているのです。
いわば、あたりの馬券を探して、一発当ててやるぞ、と彷徨っているというのが、「俺の赤い星」の俺の有様なのです。
全力の笑みもやがて ざわめきに消されていく
他人のジャマにならぬように生きてきた
この部分も、悲壮な思考が見えます。「他人のジャマにならないように生きてきたんだから、ちょっとはいいことがあってもいいはずだ」と、いいことがあることを望んでいる思考。だけど現実は「全力の笑みもやがてざわめきに消されていく」と、世間に全然相手にされていない様子。
一度だけ俺の赤い星 ヤマしい気持ちそのままで
プロペラを回す夜の果て すぐに撃ち落されるとしても
「一発当てたい」という気持ちを隠さないのが、この曲です。それをヤマしい気持ち、と表現しています。
普通は「いやぁ全然売れようとか思ってなくて、ただ自分の表現したいことを曲にしたら売れちゃいました」的な、そういうことを言うのがかっこいいとされていますよね。でもこの曲では「売れたい」という気持ちを、隠すことなく、もろだしにしています。
「プロペラを~」の部分は、ヒットチャートのことなのかなと。プロペラを回して「いけーっ」と勢いよく上昇してみたけれど、上昇しきらないうちに、すぐに撃ち落されるのが、ヒットチャートの過酷なところです。強豪がものすごく多いですからね。上のほうにいるのは、全員歴戦のプロですから。スピッツを乗せた飛行機がふらふら飛んでいるところに、ミサイルが当たって、ひゃーっと落ちていくというのが、ロビンソン前までのスピッツでした。
夕立はすぐ晴れて 忘れ傘思いながら
あくびするフリをして空を見た
地面に落ちたところで思うわけです。「ああ、あの作品、もっとああしておけばよかったな…」と。これが、忘れ傘の正体かなと。
全力で作った作品だけど、鳴かず飛ばずに終わって、「もっとこうしておけば…」の後悔が残る。でも次に進まなければいけない。いつ飛べるかもわからない空を眺めながら。
一度だけ俺の赤い星 よく似た石百種類
目もくれず迷う夜の果て ただループして明日になっても
よく似た石、って何でしょう? たぶん、「赤い星」に変わる、別の選択肢のことだと思います。つまり、別の生き方ですね。
それに目もくれない、とは、もう音楽で生きていくこと決めてしまっている状況です。腹くくってやっています。
とはいえ、迷っています。そうなんですよね。大ヒットの仕方がわからないからです。どんな音楽を作れば、大ヒットするのか、全然わからない状況にいるわけです。
こんな時代が、ずーっとループしていました。
という感じで、解釈してみましたが、どうでしょうか?
なぜ、ロビンソンやチェリーで大ブレイクしたスピッツが、いまだにこんな、くすぶり続けているような曲を書いたのでしょう?
やはり、それだけ売れることに対する、情念が残り続けていたということなのでしょうか。
個人的には、私はこの曲が大好きです。なぜなら、私自身も、くすぶり続けているからです。スピッツのみなさんも、もしかしたら、そうなのかもしれません。いったいどこからが、赤い星に到達したと言えるのでしょう? 全国ツアーでしょうか? 武道館ライブでしょうか? ひとによっては、学校祭で演奏をできれば、到達したと満足できる人もいるでしょう。
まぁ、くすぶっているのがいいとか、悪いとか、そういう話ではないんですよね。上昇したいという欲望をエネルギーに変えて進んでいくことができれば、いいんじゃないのでしょうか。
スピッツも、こういうドロドロしたものを上昇する力に変えて、今があるのだと思います。
私もまた、赤い星を追い求めていきたいと思います。前に進んでいけるような曲とはちょっと違うかもしれませんが、とても勇気を貰える曲です。スピッツも、こんな時期があったんだなぁと実感できます。
スピッツだって五里霧中の中頑張ったんだから、私も頑張ろう、って気になる曲です。
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