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スピッツ「不思議」は、短編アニメ「陽なたのアオシグレ」を視聴した感想説。



こんにちは。八百屋テクテクです。

今回は、スピッツ「不思議」について解釈していきたいと思います。

この曲は、短編アニメ「陽なたのアオシグレ」の主題歌になっています。

面白いのは、アニメの内容と、詞の内容がかなり合っている点です。というのも、スピッツは様々な曲がCMやドラマに使われていますが、だいたいの曲において、内容に即したものにはないっていません。例えば渚はポッキーのCMで使われていますが、「ポッキーを食べたいわ~」って内容ではありませんし、ビギナーはゆうちょ銀行のCMなんですけど「ビギナーだけどアナタの口座を管理します」って内容ではないですよね。スピッツの曲から感じるイメージだけを抽出して、テーマ曲に採用した、というのが、だいたいの流れだと思うのです。

あるいは、「ハチミツとクローバー」のように、スピッツの曲が最初にあって、それからイメージを膨らませて出来上がった作品、というのもあります。

このように、スピッツの曲に影響された作品はあっても、作品がスピッツの曲に影響を与えた、というのは、結構珍しいケースなのだと思うのです。

たぶん、この詞を手掛けようとした時、短編アニメ「陽なたのアオシグレ」の内容について、かなり詳細な話をマサムネさんが聞いていたんじゃないかなと。

そして、「お~めっちゃいいじゃん! ヨーシ、このアニメをテーマにした曲、作ったるわ~!」って、張り切って作ったのが、この曲なんじゃないかなと、私は思うのです。

なぜ、そう思ったのか、歌詞を順番に眺めていきましょう。




目と目で通じあえる 食べたい物とか

今好きな色は 緑色 雨上がり

絵になるスマイルが 僕に降りそそぐ

痛みを忘れた そよ風に だまされて

まず、この曲はどういう視点で描かれているか、ということですが、たぶん、「アニメを視聴しているマサムネさん視点」です。

あと、この曲に出てくる「僕」は、マサムネさんですが、「君」は、アニメの主人公の男の子です。つまりこの曲は「君に恋した話」ではなく、ヒナタちゃんに恋をしている、妄想家のシグレ君を見て、ああ~恋っていいなぁ、とキュンキュンしているマサムネさんの話、なのです。

「目と目で通じあえる」のは、現実の話ではありません。妄想の話です。最初にこのワードを持ってきた時点で、マサムネさんの意図が見えます。「いいですかぁ? 目と目を合わせたところで、食べたい物とか、今好きな色を当てることはできませんよね。でも、そういう妄想しちゃうことって、昔ありましたよね。そうです。恋です。これはつまり、恋の妄想に取りつかれちゃってる、少年の話なんです」と、訴えているようです。

ちなみに、アニメ「陽なたのアオシグレ」の内容は、主人公の男の子シグレ君が、ヒナタちゃんに恋をしており、彼女といろんな妄想を繰り広げる話です。あんなこといいな、できたらいいな、と頭の中で妄想しますが、実際は臆病で話しかけることもできず、ヒナタちゃんを前にしてもアワアワするばかり。ヒナタちゃんが転校をしてしまうことになっても、好きだと言い出すことができません。頭の中では、電車に乗って遠ざかるヒナタちゃんを、鳥に乗って追いかけていく圧倒的にキレイなシーンがあり、そこでスピッツの不思議が使われていますが、これは全部シグレ君の妄想です。離れたくない、好きだといいたいのを言い出せないまま、離れ離れになって終わります。

このアニメを見たマサムネさんの感想が、「絵になるスマイルが 僕に降りそそぐ」ということなのだと思うのです。「とてもいいわぁ~、初恋の淡い感じとか、よみがえってくるようだわ~」と思っているのかなと。

恋には、いい思い出も、悪い思い出もあると思います。特に初恋なんてのは、ほとんどの方は苦い思い出で終わっていることでしょう。うまく振舞えず、嫌われるのが怖くて、何もできなかった的な感じで、終わっているのではないのでしょうか。自分の中で、彼あるいは彼女に対する思いがくすぶっている状態。これを、いい恋ととるか、悪い恋ととるかは、捉え方次第でしょうけれども、ようは、そういうのが恋なのだと思います。

でも、このアニメで描かれている恋は、その、悪い面を極力排除して、いい面だけを見せてくれています。恋の「痛みを忘れた」り、「騙されたり」することで、恋のいい面だけを感じることができる、というわけです。



何なんだ?恋のフシギ 生きた証

シャレたとこはまるで無いけれど

君で飛べる 君を飛ばす

はぐれ鳥追いかけていく

ヒナタちゃんに恋をしたシグレ君にとっては、ヒナタちゃんとの日々は「生きた証」になっていることでしょう。とはいえ、ヒナタちゃんとシグレ君は、特別な関係を結べたのかといえば、そんなことはありません。「シャレたとこはまるで無い」のです。無いのに、生きた証にまでなっている。これは「何なんだ?恋のフシギ」と感じちゃうのも頷けますね。

「君で飛べる 君を飛ばす はぐれ鳥追いかけていく」の部分は、アニメの表現そのものです。この曲が使用されている場面で、ちょうどシグレ君が大きな鳥に乗って、ヒナタちゃんを追いかけていくシーンになっています。このアニメを眺めて、はーん、このシーンに合うような詞にしようかな、とマサムネさんが考えたのではないのでしょうか。



貝の中閉じこもる ことに命がけ

その日々が割れて まぶしかった 次の頁

ここは、マサムネさん自身の心境を表したものなのかなと。リアルな恋って、いい面も悪い面もあると申しましたが、特に悪い面が厄介なんです。特に、いい大人になってからの恋は、物理的にも心理的にも負担が大きいんですよね。だから「もう恋なんていいわ……」って思う人が多いのも、しょうがない話です。恋を表現することを生業としているマサムネさんもまた例外ではありません。マサムネさんもまた、この世界をリアルに生きている人なので、そういう場面に幾度となく出くわしてきたことでしょう。恋の悪い部分に幾度となく遭遇し、もういいや、という心境になっているのではないのでしょうか。

そんな「貝の中閉じこもる ことに命がけ」になっていた今日このごろですが、このアニメを観て、「まぶしかった 次の頁」という心境になったのではないのでしょうか。

あと、貝の中閉じこもっていた→そんな日々が割れて、の部分もすごいテクニックですね。貝が割れることと、自分の心の扉が開いたことを、リンクさせている表現です。すごいですね~!



ああベイビー!恋のフシギ さらにセットミーフリー

過ぎていったモロモロはもういいよ

わざとよける 不意にぶつかる

濡れた道を走っていく

「ああベイビー!」とは、誰に対してのことでしょう? たぶんヒナタちゃんに対する感嘆かもしれませんし、彼女を追いかけるシグレ君に対してなのかもしれません。どちらにせよ、純粋な恋の表現者となった二人の、どちらかを指しているのだと思います。「君たちはもう~!」と、ニヨニヨした気分になっています。

悪い恋のため、すっかり疲れ切っていたマサムネさんですが、このアニメを眺めて「過ぎていったモロモロはもういいよ」という気分になっています。

「わざとよける 不意にぶつかる 濡れた道を走っていく」は、マサムネさんの、恋に対する哲学のようなものだと思います。意中の相手に対して、関心のないようなフリをして、わざとよけたりします。かと思えば、不意に気持ちをぶつけたりします。濡れて足元の悪い、気持ちの悪い不安定な道を、ぐちょり、ぐちょり、と歩いていく。これが恋なんだ、と。だから恋って不思議だよね、と言いたいのだと思います。



何なんだ?恋のフシギ 恋はブキミ

憧れてた場所じゃないけれど

君で飛べる 君を飛ばす

はぐれ鳥追いかけていく

「恋のフシギ 恋はブキミ」は、マサムネさんの正直な感想だと思います。でも不気味になりすぎないよう、負の側面が強すぎないよう、カタカナで表したりしています。恋の不気味さに対する、配慮を感じます。まあ、フシギとブキミという、言葉遊びをしたい、という側面もあったでしょう。

「憧れてた場所じゃない」というのも、正直な感想なのだと思います。子供が観るものである(と思っていた)アニメの主題歌を担当するのは、ロックバンドの役割じゃない、と、若き日のマサムネさんは思っていたでしょう。そんな憧れてた場所じゃないところに、今の自分が立っている。そこで恋の歌を担当している。これもまた、人生の不思議さというものでしょう。




という感じで解釈してみましたが、いかがでしたでしょうか?

私としては、こんな感じの解釈になりましたが、もちろん「陽なたのアオシグレ」を視聴したことがない人でも、この曲を十分に楽しむことができます。この曲の世界観に浸ることができます。そういう作りになっていると思います。

私たちが、この詞を簡単に受け入れることができるのは、恋の不思議さが、誰しもの心の中にあるからだと思うのです。普遍的でありふれたテーマだけど、マサムネさんの手にかかれば、これほど美しく表現できるのです。まるで映像が思い浮かんでくるようです。



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