こんにちは。八百屋テクテクです。
今回は、スピッツ「ワタリ」について解釈していきたいと思います。
この詞は、真面目に読むと、どういう感情で描いた詞なのか、よくわからない感じになっていると思います。
最初に、自分のせいだ、と自分を責めるところから始まっています。
でも、寂しくて泣けることは贅沢だ、とも言っています。
そしてサビは、心に生えた羽を広げて、海を渡っていくそうです。
心に羽が生えるということは、気持ち的には明るそうなんですけど、黒い海なところが、どことなく気持ちが暗いイメージを思い浮かべてしまいます。
真逆な風景ばかりを、見せられている気がしますよね。
なんなんでしょう、これ。
いったいマサムネさんは、この「ワタリ」で、何を言いたかったんでしょう?
っていうのが、今回のテーマになります。
結論から申し上げますと、私的には、セックスソングなんじゃないかなと思います。
いやぁ、老若男女が訪れる八百屋さんのブログで語るべきことじゃないとは思うんですけど、でも性とは、生きることです。生きることは別に悪いことじゃありません。と、ユーチューブでここ最近、お坊さんの説法ばかりを視聴していたので、そう思いました。(お坊さんのせいにしていく)
性について語るのは、技術がいります。なにかと下品になりがちな話題ですから。
その技術に挑むという意味でも、セックスソングだと解釈した「ワタリ」の解説に挑んでいきたいと思います。
誰のせいでもねえ すべて俺のせい
可笑しいほど白い花を手に持って
誰もせいでもねえ すべて俺のせい
マジメすぎただけ 君が見た夢
もう二度と会えない そんな気がして
「誰のせいでもねえ すべて俺のせい」ではじまるこの曲。なんで自分をそう責めているのかは、結局、詞の最後まで、語られることはありません。
でも、この「せい」は、責任の所在をあらわす言葉ではなく「精子」のことを表しているんじゃないのでしょうか。
そうなると、「誰のせいでもねえ すべて俺のせい」とは、「これは俺様のものだ」と、傲慢ともとれる意味になっちゃいます。
花は、精子が飛び散った様を表しています。可笑しいほど白いのは、そのためですね。その、飛び出た精子を、手に持っています。その手は誰のものなのでしょうか。
君は、このセックスに「こんなはずじゃなかった……」と困惑している様子が伺えます。その困惑に対して「俺」は「マジメすぎでしょ。何夢みてんの?」みたいなことを思っています。いや、実際に口に出して言ったのかもしれません。
実際、女性の身体の中に出すはずの「白い花」を手に持っているあたり、「正しい」セックスではなかったようです。
なので、「俺」との「正しい」セックスを夢見ていたマジメすぎる君は、戸惑っています。もう二度と会えない気がしたのは、そんな君の様子を見たからでしょう。
心は羽を持ってる
この海を渡ってゆく
「海」という字の中には、「母」が入っています。海を母体に例えるのは、どの文学作品にもみられることですが、この「ワタリ」の海もまた、母体と変換するのが適切でしょう。
もっと言うなら、母体の母体たらしめている器官である「子宮内」を指しているものと思われます。
そして「心」は、「俺」の「内臓」です。この内臓は精子に変換されて、セックスを通じて、俺から君へと「わたって」いくということです。
寂しい黄昏に泣けるぜいたく
電車の窓から見かけた快楽
寂しい黄昏に泣けるぜいたく
ガクに収まった世界が軋む
愛されるような道化になった
この項目で最初に気になるのが、「ぜいたく」という部分です。ぜいたく、とひらがなになっています。これは一体、どういう理由があるのでしょう?
これは、普通の贅沢を指しているのではない、と解釈しました。
「泣くほど豪勢な贅沢」を指しているのではなく、「泣くこと自体がぜいたく」ということです。
誰が泣いているのかというと、「君」のほうだと思います。
前の歌で、セックスソングだという解釈しているなら、セックス後に泣いている表現なのかなと。黄昏は、日没後のことを表しています。この場合、寂しいぐらいに静かな日没後にセックスしたということではなく、セックス後の空虚感を表しているんじゃないかなと。
「俺」にとっては、セックスは慣れたもので、いつもの空虚感に浸っているところでしょう。そして、相手もまた、同じような空虚感を味わっていると思っていました。ところが、「マジメすぎる」君にとっては、セックス後というのはとても幸福な時間だったのでしょう。泣くぐらい、感動しています。
いや、あるいは、羞恥で泣いているという表現なのかもしれません。「俺」というのはひどいやつで、「マジメ」な君にいろいろ無茶な要求をして、いやいやながら従ってはみたものの、最後には泣き出してしまった、という具合かもしれません。そんな君をみて「たっぷり俺にいじめられて、ぜいたくだね」と言っている、ひどい部分なのかもしれません。
「電車の窓から見かけた快楽」の部分は、すごく謎だったのですが、やはりこの解釈を踏襲すると、快楽というのは、他人のセックス場面なのだと思います。電車の窓という公共のものから覗ける場所でセックスをしていた露出狂の男女を「快楽」と表現しているということは、「俺」は似たような性的嗜好の持ち主なのかもしれません。少なくともその快楽を、理解できる側にいるわけですから。
「ガク」に収まっているのは、彼女のほうです。その彼女の「マジメ」な世界が軋んでいます。「俺」の性的嗜好に付き合わされることで、次第にその嗜好を受け入れていっている様子です。
「愛されるような道化」とは、「俺」に愛される「道化」に、君がなったということです。道化とは、おかしな恰好や変なポーズをして、笑いをとる役者です。君は「俺」の虜になって、喜んでその役割を果たそうとしているというわけです。
となると、この項の最初に考えた「泣けるぜいたく」の意味もまた、変わってきそうです。彼女は羞恥のために泣いたのと同時に、「俺」から与えられた快楽のために感動して泣いた、という、そんな意味になってきそうです。
とにかく、マサムネさんが「ぜいたく」をあえてひらがなにして、贅沢の意味を探らせるように仕向けたとするなら、表現しにくい感情が隠れていそうですね。
それでも掟を破ってく
黒い海を渡ってゆく
「黒い海を渡ってゆく」の部分は、子宮内に射精をする表現だということは、先に述べたとおりです。日の当たらない子宮内は、黒いはずです。
「それでも掟を破ってく」は、どう解釈しましょう。セックスにおいて破るといえば、性器を挿入する表現になります。時代劇などでは、堅牢な城壁に守られた門扉を攻略する際、この門扉を女性器に例えて、男性器を自分たち攻略側の兵士に例えます。門扉を打ち破ることができれば、強い男性であると表現されるのです。こんなふうに、「俺」による「マジメな君」への挿入を、「掟を破る」と表現しているのでしょうか。
いやぁ、でもすでに前の項目で「君」は「俺」によって「愛される道化」に変えさせられています。そんな彼女に挿入するぐらいなら、いとも簡単なはずです。なんの掟があるのでしょう?
「それでも」の部分と「掟」の部分。見方によっては怖い表現です。「俺」の要求に従順に応える「愛される道化」となった「君」に対して、さらなる過度に性的な要求を「俺」がしているとしたら、どうでしょう。もっと、もっと、と、要求がエスカレートしている様を、「それでも掟を破ってく」と表現していたとしたら……。
「掟を破ってく」も、「ガクに収まった世界が軋む」も「マジメすぎた」も、「君」がもっている常識の限界を、「俺」がミシミシと破っていく様を表しています。それも、曲が進むたびに、どんどん内容が過激になっていくような、そんな怖さを感じます。
常識的で、良識的な愛なんて、性欲の前では存在しないのかもしれません。それをこの「ワタリ」では、表現されているような気がします。
とまぁ、「ワタリ」を、こんなふうに解釈してみましたが、いかがでしょうか?
いやぁ、セックスソングの解説を「いかがでしょうか?」と聞くのも、どうなんでしょうね。
ひとによっては、不快な話になったかもしれません。
ほんと、不快なことを申すのが解釈の趣旨ではありませんし、ひとによっての解釈はそれぞれあります。その、自分の中に作り上げた解釈を、いちスピッツファンとして、私は大事にしたいと考えています。
ただ、スピッツにもまた、性的な要素があることもまた、事実です。
そして、性とは、生きることと、切っては切れない関係にあります。
特に若い人だったら、性に対して、臆病になったり、避けたいと思ったり、してもいいと思います。大人でも、今の世の中、避けて通ってもいい環境になりました。
でも、スピッツを語るなら、私は、避けて通ることができないと判断しました。しっかりと正面から受け止めて、見つめる必要があると思いました。
このスピッツが表現したセックスに対して、どれだけ技術を高めて、それを昇華していくか。これが、スピッツを解釈するうえでの課題なんじゃないかなと、私は思っています。
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