こんにちは。八百屋テクテクです。
今回は、スピッツ「センチメンタル」の解釈をしていこうかなと思います。
ブログのタイトルにありますとおり、これは青春を表した曲だと、私は解釈しています。
もっとも、「青春」という文字が表すような、キラキラしている美しいものではありません。部活だラブコメだ、あの夕陽に向かってみんなで走ろう! みたいな、そういう感じのやつではありません。
もっと古い時代に使われていた、暗くジメジメとした、若いゆえの悩み多い時代という意味の、「青春」です。ゲーテの「若きウェルテルの悩み」みたいな。知らないって? そうですか……。
まあとにかく、「青春」を、そういうニュアンスで捉えてみると、この詞の言わんとしていることが見えてくるんじゃないかなと、そういう風に思うわけです。
みなさんにとって、青春時代って、どういうものでしたか? 世間一般で言われているとおり、ラブコメチックな時代でしたか? 夕陽に向かって全力疾走するような、清く正しく美しい、青春を謳歌していましたか? ポカリスエットのCMみたいな、あんなキラキラした青春でしたか?
たぶん、そういう青春を送ってきた人っていうのは、ごく少数なんじゃないのでしょうか。ほとんどの方は、暗い地ベタを這いずり回るような、暗中模索をしていたのではないのでしょうか。濡れたシャツを着ているみたいな、なんか不快な気持ちを抱えて、悶々とした日々を過ごしていたのではないのでしょうか。
「青春って、楽しいでしょ?」みたいな、メディアの押しつけがましい宣伝があるために、楽しいものだと勘違いしちゃいがちなんですけど、本来「青春」というのは、悩んだり苦しんだりする時代なのです。大人になるために必要な、誰にでもある成長痛なのです。
その、悩みや苦しみといった感情が、この「センチメンタル」に見え隠れしている、というのが、私の解釈です。
切ない気持ち抱えて笑い出したのは
おとぎの国も 桃色に染まる頃
笑うというのは、何か可笑しさを感じたときに笑います。お笑い芸人の、バカな行動を見たり聞いたりしたとき、私たちは笑います。
でも、ここでの主人公は、心の底から笑っていません。なぜなら、自分が笑われている場面だからです。
たぶん、笑っているのは、主人公が恋をしている、女の子です。彼女は主人公の前で、ゲラゲラ笑っています。主人公が意図せず、なにかバカな真似をしたせいです。大失敗したおかげで、彼女をはじめ、まわりの人間から指をさされて、ゲラゲラ笑われてしまっている状態です。
こうなると、もう主人公も笑うしかありません。
つらい笑いです。これがまだ子供だったとしたら、主人公も心の底から笑えたでしょう。みんなを笑わせたのなら、それは手柄です。面白い人だね、と周りに思われるのは、基本的には得なことです。
でも、主人公は、目の前にいる女の子に恋をしてしまっています。
恋をしている女の子の前では、かっこいい自分でありたい。かっこいいと思われたい。そう願うはずです。でも、かっこ悪いところを見られてしまった。これは手柄ではなく、大失態です。
どうにもできずに、ただ自分も一緒になって、笑うしかなかった。ここは、まさに苦い青春の一コマなわけです。
「おとぎの国も桃色に染まる頃」というのは、子供時代から大人に変わる状態を指しています。おとぎ話というのは、グリム童話に代表されるとおり、桃色の話……つまり性的な話がとにかく多いのです。大人向けだった話を無理やり子供向けの話にしたから、大人な部分が見えにくくなっているだけで。
そんな、昔よく聞かされていた話が、実は大人むけの話だったと気づいて、耳が真っ赤になる経験をするのが、青春時代というわけです。
震えていたよ まだセンチメンタル・デイ
裸の夢が 目覚めを邪魔する 今日もまた
恋をしている彼女に、大失態を見せてしまった主人公。震えてしまうのも無理はありません。
失敗した……自分の人生は終わりだ……。そんな、崖っぷちに立たされているような心境に陥っています。小さな失敗で、次の日には誰も覚えていないような失敗を、くよくよと悩んでいる場面です。それが、センチメンタル・デイというわけです。
裸の夢というのは、主人公が好きな女の子が裸になっている夢です。いや、たぶん裸になりそうで、ギリギリならなかった夢だと思います。なので主人公は、その夢の続きがどうしてもみたくて、起きなきゃいけない時間にもかかわらず、もう一度眠りにつこうとします。そういう愚かな行動をしてしまうのが、センチメンタル・デイなのです。
認めてくれた オドされて真に受けず
暗い地ベタを 眩しく月が照らす
「認めてくれた」とは、好きな子が、自分を認めてくれたのです。
「君って、ギター上手だね」「絵がうまいね」「頭いいね」「足が速いんだね」何かの拍子に、そんなふうに、声をかけられたんだと思います。
それで、もう舞い上がっちゃいます。好きな子に笑われて人生の終わりだと思うのが青春なら、好きな子に認められて世界制覇した気分になるのもまた、青春です。もうギターひとつでヒットチャートを駆けあがるのも夢じゃないと思えるし、テレビでひっぱりだこのアーティストになれちゃう気がするし、東京大学にも行けちゃう気もするし、世界陸上で各国の実況アナウンサーに名前を連呼される未来を想像しちゃったりもします。
「おい! こんな成績じゃ、どこの大学にもいけないぞ!」とか「音楽で生きてく? なにをバカなことを言ってるんだ。真面目に勉強しろ」とか、直後に先生から怒られたとしても、真に受けることはないでしょう。だって彼女に、そういわれたんだから。
歌詞をなぞると、主人公の危うさが、手に取るようにわかります。彼女の言動に一喜一憂しています。彼女に、行動を支配されているようなものです。
暗い地ベタを照らしているのは、陽の属性である太陽ではなく、陰の属性である月です。青春とは何か? という疑問に対する答えが、この一文に集約されているようです。暗く冷たい地べた。照らすのは月。暗い道も、眩しく見えるものも、すべて陰の存在。青春時代を生きる主人公を取り巻く環境すべては、陰のもので構成されているのです。
君を知りたい そんなセンチメンタル・デイ
忘れたふりの 全てを捧げる 春の華
青春に関することで、もう一つ思いだしたことがあります。
それは「初恋だけが本物の恋であり、その次の恋からは、初恋をなぞるだけのものである」という言葉です。初恋の相手と、こんなことをしたかった、とか、こう言えればよかった、という想いをずっと引きずりながら、次の、そのまた次の恋をしていくそうです。そして、はじめて恋仲になった人に対して、初恋の時に叶えられなかったことを試みて、達成する、と。
私自身に当てはめてみると、あんまり当てはまらないような気もするのですが、みなさんはどうでしょう? 一般的には、こういう認識なのでしょうか?
まぁ一般的かどうかはさておき、この詞の、「忘れたふりの全てを捧げる春の華」というフレーズには、上記の思想が入っていそうな感じがするのです。
「春の華」は、青春時代に恋をしていた相手、つまり君のことだと思います。この場合は季節の春ではなく、青春の春だとみて間違いはないです。「君」に恋した時代から月日は流れて、「君」のことを忘れたつもりになっていたけれど、でも自分の青春時代、自分のすべてを捧げていた、「君」という女の子は確かにいて、かつ青春時代に「君」に捧げた自分の気持ちというは、いまだに自分の行動の骨格になっているよ、みたいなことを言いたいんじゃないかなと。
どうでしょうか?
センチメンタルという言葉は、今ではあまり使われなくなりましたが、かわりに「エモい」という言葉が使われています。
エモーショナル、つまり感情的な、という言葉だそうです。青少年にしか適用されないセンチメンタルよりも、より広義に使用することができるので、この言葉に取って代わられるのも無理はないでしょう。
でも、だからこそ、センチメンタルという言葉の意味についても、もう一度見つめなおしてみるのもまた、よいのではないのでしょうか。
マサムネさんがしたためた、この詞を眺めることで、エモい感情に浸ってみるのも、いいものですね。
スピッツが好きな八百屋さんの記事一覧はこちらからどうぞ↓
Comments