今日は、スピッツの「みなと」について、解析していきたいと思います。
「みなと」については、リリースした時、衝撃を受けたのを、昨日のことのように思い出します。
私はしっとり系が大好物なんですけど、この「みなと」のしっとり具合がとんでもなく好きです。スピッツの曲で何が好きかと問われたとき、大衆に迎合した(とみなされる)シングルカットされた曲を答えるのは、スピッツを知るものとして浅いんじゃないかという、深刻な(?)偏見が自分の中にあったんですけど、これはその偏見の壁をぶちやぶるには十分な、破壊力をもった曲でした。曲の質量もスピードも惑星レベル。衝突したら、そんなチンケな壁なんて、木っ端みじんですよ。堂々と「スピッツのみなとは、ほかに類を見ないぐらいの、すんごい曲だ」と言わざるを得ないですね。
正直、こんなにいい曲を分解して、ここはこうですね、とやるのは、無粋な感じがしてしまいます。
とはいえ、じゃあ今までの曲はどうなんだ、と言われると立つ瀬がないので、まことに申し訳ございませんが、「みなと」も分解して、構造がいったいどうなっているのかを、調査してみたいと思います。
ちなみに、この曲がリリースされたとき、東北の震災から五年が経過しておりました。
まだまだ傷跡も癒えない時期だったことに加えて、この歌詞の内容から、「この曲は震災のことを歌っているんじゃないか」という感想をもつひとも多かったように思います。
「みなと」は、はたして絶望の曲なのか、希望の曲なのか。
「君」とはいったい何者なのか。
そして、歌詞はちゃんと港になっているのに、タイトルを「みなと」とひらがなにわざとしたのは、なぜでしょう。
もしかしたら、タイトルの「みなと」は、「港」じゃないものを指しているのかもしれません。
どういう字を当てはめたらいいのか。
と考えた時、「皆と」が思い浮かびました。
そして、歌詞の中に登場する「君」は、たぶん特定の個人に向けられたものではないと思います。「君」とは、震災の津波で海に流された、大勢の方々を指しているのだと思います。大勢の、ひとりひとりを。
いや、不特定多数というわけではありません。マサムネさんはスピッツとして長年活動なさっているので、その過程で、関係者として知り合った方もいるでしょうし、交流したファンも当然いるでしょう。ライブ中、ステージの上から眺めて、印象に残った顔もあったでしょう。マサムネさんと直接会話を交わしていても交わしていなくても、マサムネさんが認識していた方々は少なくないはずです。そうした方のうち、今、海の底にいる方。「みなと」は、そうした方々ひとりひとりに向けたレクイエムのつもりで、製作された曲なのかなと、私は思いました。
この解釈、どうでしょうか。
「船に乗るわけじゃなく だけど僕は港にいる 知らない人だらけの隙間で立ち止まる」
最初の部分です。後で出てきますが、僕がいる港というのは、夕暮れ時の、誰もいない港です。だけど「知らない人だらけ」というのは、どういうことなんでしょう。
それは、たくさんの「知らない人」は、すで亡き人だということです。
港の一歩外の海原は、死者たちが住んでいる場所になります。東北震災の犠牲者の2万人の中には、見知った顔もいたでしょうけれど、知らない人のほうが多いでしょう。
「遠くに旅立った君に届けたい言葉集めて 縫い合わせでできた歌ひとつ携えて」
震災から五年も経過していて、届けたい言葉を集めていたにもかかわらず、いまだに縫い合わせみたいな歌しか作れていない。そうマサムネさんは感じています。この大きすぎる災害に対して、五年の期間があっても、うまくまとめきれない。そんな遣り切れない感情の大きさが、このフレーズから伺えます。
「汚れてる野良猫にもいつしか優しくなるユニバース」
汚れてる野良猫にもいつしか優しくなるユニバース、ってどういう意味なのかを考えてみました。この歌詞の場合、この部分は、いったいどういう意味になるのか。私は、よくない意味にとらえました。
野良猫というのは、野良で生活をしていますが、綺麗です。たいてい汚れていません。野生動物を見ているとわかりますが、汚れたまま生活を送っている動物というのは、そういう生態をもっているものは別として、少ないです。汚れないよう、ちゃんと自分の身体を綺麗にしているからですね。
でも、この野良猫は汚れています。自分の身体を、自分で綺麗にするだけの気力が、もうない状態なのですね。こういう野良猫は、かわいそうですが、もう余命がいくばくもありません。これから、ひっそりと死を迎えます。でも、優しくなる、と言っています。ユニバース、つまり宇宙とか自然は、死を迎えた生命を優しく受け入れてくれるものなのだと、マサムネさんは表現しています。
いや、「死を迎える人にとって、世界は優しい」と安易なことを言いたいわけではありません。これは、この歌詞の世界観の中での話です。ほかにどうにもならなくなった感情を慰めるのに、こうした言葉を選んで使っているのです。他の場面では、安易に使えない言葉だし、使っちゃいけない言葉です。この場面にだけ使える、特別な言葉なのだと思います。
「黄昏にあの日二人で眺めた謎の光思い出す 君ともう一度会うために作った歌さ 今日も歌う錆びた港で」
謎の光とは、なんでしょう。港にある光るものといえば、灯台とか漁火とかでしょうけれど、黄昏時にはまだ点灯していませんし、灯台とか漁火は、そもそも正体がわかっています。謎ではありません。
「君」がファンやスタッフのことだとするなら、黄昏時に眺めた光というのは、ライブ演出のことなんじゃないかなと思います。ライブ見てて、「これどんな理屈で光っているんだろう?」っていう、凝った演出ありますよね。こう考えると、一番辻褄があうのかなと。時間帯的にも、黄昏時にライブやりますからね。
このライブと同じように、錆びた港の桟橋から、海原に向かって歌を歌っている。もう一度、歌を「君」に届けたくて。亡くなった「君」を慰めるには、まだまだツギハギな内容だと思うけれど、「君」にここで会うために、長い時間をかけて作った歌だよ。という想いが、このフレーズに込められていると感じます。
「勇気が出ないときもあり そして僕は港にいる 消えそうな綿雲の意味を考える」
最初は、何か嫌なことがあって、そこから逃げ出したい思いで港に来たのかと思っていましたが、背景から考えると、「亡くなった方を慰めることが、はたして自分にできるのか勇気が出ない、けど、慰めるために港にいる」ということです。勇気がないけど、「君」と向き合うために、立たなければならない。そういう強い想いを感じます。
また、「消えそうな綿雲」とありますが、綿雲が消えそうになるのは夕方です。やはりマサムネさんは、一人で海に向かってライブをしようとしていたのかもしれません。
「遠くに旅立った君の証拠も徐々にぼやけはじめて 目を閉じてゼロから百までやりなおす」
この部分は「消えそうな綿雲の意味を考える」の部分と、かかっているのかなと思います。綿雲は、いつくもの小さな雲の塊が積み重なって出来上がります。
「君」が生きていた証拠も、時間経過とともにぼやけ始めました。五年もたてば、震災の爪痕も少なくなって、新しい生活が始まっています。それとともに「君」の話をする人たちも少なくなり、そこにいた面影が感じられなくなっていることでしょう。
だから「君」が生きた証を探すなら、自分自身の中を探るしかないんです。自分の記憶の中にいる「君」を、綿雲を形成するときのようにゼロから百までかき集める。そうする必要があるんですね。
「すれ違う微笑みたち 己もああなれると信じてた 朝焼けがちゃちな二人を染めてた あくびして走り出す」
己(おのれ)、という使いなれない表現、いったいどういう意味で使ったんでしょう。
ここの解釈は自信がないんですけど、一方で、マサムネさんが、めっちゃぼかした所なんじゃないかなと思います。最初は、すれ違う微笑たちと、そうじゃない自分がいて、いつかは彼らのように幸せにいられるようになるって信じてたけど、でもそうはならなかった。というふうに解釈していたけれど、実は、すれ違う微笑たちのほうが地上から消えてしまったという解釈ができることに気が付いたんです。
己とは自分自身のことを指しますが、たんに自分自身を指したいなら、僕、でいいはずです。でも、ここは、僕、ではダメだったんです。ここで己が表す意味とは、震災前までの、変わらない日常が流れ、同じようにライブをし、同じように喜んでもらえると信じて疑わなかった、数年前の、今とはまったく性質のちがう、自分自身のことです。
ただ、ここをはっきり描いてしまうと、急に歌詞全体が悲しみを帯びてしまうことに気が付きました。本来なら、「震災のことかもしれないけれど、そうじゃないかもしれない」という程度の歌詞解釈に留まるものに仕上げたかったはずです。
黄昏時はライブ前なら、朝焼けはライブ後という表現でしょうか。このあたりもはっきりしません。もしくは、朝焼けまで一緒に過ごした方を想定しているのかもしれません。あくびをしていますが、眠っていたわけではないと思います。眠っていたら、あくびの後にいきなり走り出すことはできませんからね。
「君ともう一度会うための大事な歌さ 今日も歌う一人港で」
この歌は、その他大勢に向けて発信する歌ではなく「君」のためだけに作られた歌なんです。愛情表現にも聞こえますし、「生きている人のための歌ではない」ともとることができます。どちらにせよ「君」のため、ということが伝わってきます。大勢の人に向けられた曲ではなく、たったひとりの「君」のための歌を、港で歌っているのです。
すこし前の話に戻りますが、なんでタイトルは「港」ではなく「みなと」なのか。
ここまで、ひとりひとりを大事にする曲なわけですから「皆と」なんて解釈をされたら、意図がよくわからなくなってきてしまいますよね。
でも、ひとりひとりが集まっている公演だからこそ「皆と」という表現が当てはまるかもしれません。
ひとりひとりのことを思って作られた曲だとは思いますが、特定の誰かひとりのことを思って、作られた曲ではないからです。
海の底で眠っている、自分を知っているみんなに対して、作られた曲だと思うのです。
最後に、「港で、港で」と復唱しますが、「皆とで、皆とで」と言いたかったのだとしたら、どうでしょう。港をライブに見立てて、海原にいる観客に向かって歌っている。みんなで歌おう、と言いたかったのかもしれません。みんなで歌うことで、魂を震わせることができたら。そんな願いにも似た思いを、この「みなと」から感じることができました。
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